しく、口の周囲を拭いまわしながらソロソロと顔を上げた。見ると最前の恐ろしい形相はあとかたもなくなっているばかりでなく、いかにも人なつっこそうな二十二三の美青年で、相当の教養を持っている事が一眼でわかる眼鼻立ちであったが、タッタ今老ドクトル[#「ドクトル」は太字]に罵倒された驚きが未だ消えぬかして、如何にも不思議そうに眼を瞭《みは》ったまま口をモゴモゴさせているのであった。その顔を見下しながら老ドクトル[#「ドクトル」は太字]は大得意の体で椅子の上に反《そ》り返った。
「ハハハハ。イヤ。顎の外れたのは生命に別条はありませんが案外苦しいものでね。おまけに一度外れると又外れ易いものですから、これから余程気をお付けにならんと、いけませんよ。たとえば大きな欠伸をするとか、クシャミをするとかいう時には御注意をなさらんといけません。特に只今はドンナ原因でお外しになったものか存じませんが、この次に又、今度と同じような事をなさる時には特に御注意が必要ですよ。前に外れた時と同じ動作を顎にさせると、何の苦もなく外れる事が多いのですからナ……もっとも片手で、それとなく顎を押えておいでになれば大丈夫ですがね……ハハハ……ところで如何です……紅茶をもう一ツ……」
「……ハ……ハイ……」
 と青年はやっと頭を下げて返事をしかけたが、そのまま生唾液《なまつば》を嚥《の》み込むと、まだ口を利くのが怖いという風に舌なめずりをしいしいそこいらを見まわした。そうして室の中に誰も居ない事がわかると今一度、不思議そうにドクトル[#「ドクトル」は太字]の顔を見直しながら、オズオズと唇を動かした。
「……私は……もう二度と……コンナ眼に会って……顎を外そうとは思いませぬ」
「ハハア……成る程……それでは乱暴者にでもお会いになりましたので……」
「イヤそのようなノンキな事では御座いません」
「……では大きな欠伸でも……」
「イヤイヤ。欠伸でもクサメでも何でもありませぬ」
「ホホー。それは妙ですナ。今までの私の経験によりますと顎を外した原因というのは大抵欠伸か、クサメか、大笑いか、喧嘩なぞで、その以外にはラグビー[#「ラグビー」は太字]、拳闘、自動車、電車の衝突ぐらいに限られているのですが……そんな事でもないのですナ……成る程……してみると余程、特別な原因で顎をおはずしになったのですな……それでは……」
 青年は老ド
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