表させなかった。学校の教員仲間にも知らせないようにしていた。「又余計な事をする」と云って視学官連中が膨《ふく》れ面《つら》をするにきまっていたから……。
……視学官ぐらいに何がわかるものか。彼奴等《きゃつら》は教育家じゃない。タダの事務員に過ぎないのだ。
……ネエ。太郎、そうじゃないか。
……彼奴《やつら》の数学は、生徒職員の数と、夏冬の休暇に支給される鉄道割引券の請求歩合と、自分の月給の勘定ぐらいにしか役に立たないのだ。ハハハ……。
……ネエ。太郎……。
……お父さんはチャント知っているんだよ。お前が空前の数学家になり得る素質を持っていることを……アインスタインにも敗けない位スゴイ頭を持っていることを……。
……しかし、お前自身はソンナ事を夢にも知らなかった。お父さんが云って聞かせなかったから……だから残念とも何とも思わなかったであろう。お父さんの事ばかり思って死んだのであろう……。
……だけども……だけども……。
ここまで考えて来ると彼はハタと立ち停まった。
……だけども……だけども……。
というところまで考えて来ると、それっきり、どうしてもその先が考えられなかった彼は、枕木の上に両足を揃《そろ》えてしまったのであった。ピッタリと運転を休止した脳髄の空虚を眼球のうしろ側でジイッと凝視しながら……。
それは彼の疲れ切って働けなくなった脳髄が、頭蓋骨《ずがいこつ》の空洞の中に作り出している、無限の時間と空間とを抱擁《ほうよう》した、薄暗い静寂であった。どうにも動きの取れなくなった自我意識の、底知れぬ休止であった。どう考えようとしても考えることの出来ない……。
彼は地底の暗黒の中に封じ込められているような気持になって、両眼を大きく大きく見開いて行った。しまいには瞼《まぶた》がチクチクするくらい、まん丸く眼の球《たま》を剥《む》き出して行ったが、そのうちにその瞳の上の方から、ウッスリと白い光線がさし込んで来ると、それに連れて眼の前がだんだん明るくなって来た。
彼の眼の前には見覚えのある線路の継目と、節穴の在る枕木と、その下から噴き出す白い土に塗《まみ》れた砂利の群れが並んでいた。
そこは太郎が轢《ひ》かれた場所に違い無いのであった。
彼は徐《おもむ》ろに眼をあげて、彼の横に突立っているシグナルの白い柱を仰いだ。黒線の這入《はい》った白い横木が、四十五度近く傾いている上に、ピカピカと張り詰められている鋼鉄色の青空を仰いだ。そうして今一度、吾児《わがこ》の血を吸い込んだであろう足の下の、砂利の間の薄暗がりを、一つ一つに覗《のぞ》き込みつつ凝視した。その砂利の間の薄暗がりから、頭だけ出している小さな犬蓼《いぬたで》の、血よりも紅《あか》い茎の折れ曲りを一心に見下していた。
……だけども……だけども……。
という言葉によって行き詰まらせられた脳髄の運転の休止が、又も無限の時空を抱擁《ほうよう》しつつ、彼の頭の上に圧《の》しかかって来るのを、ジリジリと我慢しながら……どこか遠い処で、ケタタマシク吹立《ふきた》てていた非常汽笛が、次第次第に背後に迫って来るのを、夢うつつのように意識しながら……。
……だけども……だけども……。
と考えながら彼は自分の額《ひたい》を、右手でシッカリと押え付けてみた。
……だけども……だけども……。
……今まで俺が考えて来た事は、みんな夢じゃないか知らん。……キセ子が死んだのも、忰《せがれ》が轢《ひ》き殺されたのも……それからタッタ今まで考え続けて来た色々な事も、みんな頭を悪るくしている俺の幻覚に過ぎないのじゃないか知らん。神経衰弱から湧《わ》き出した、一種のあられもないイリュージョンじゃないかしらん……。
……イヤ……そうなんだそうなんだ……イリュージョンだイリュージョンだ……。
……俺は一種の自己催眠にかかってコンナ下らない事を考え続けて来たのだ。俺の神経衰弱がこの頃だんだん非道《ひど》くなって来たために、自己暗示の力が無暗《むやみ》に高まって来たお蔭でコンナみじめな事ばかり妄想するようになって来たのだ。
……ナアーンダ。……何でもないじゃないか……。
……妻のキセ子も、子供の太郎も、まだチャンと生きているのだ。太郎はモウ、とっくの昔に学校に行き着いているし、キセ子は又キセ子で、今頃は俺の机の上にハタキでも掛けているのじゃないか。あの大切な「小学算術」の草案の上に……。
……アハハハハハハ……。
……イケナイイケナイ。こんな下らない妄想に囚《とら》われていると俺はキチガイになるかも知れないぞ……。
……アハ……アハ……アハ……。
彼はそう思い思い、スッカリ軽い気持になって微笑しいしい、又も上半身を傾けて、線路の上を歩き出そうとした。するとその途端に、
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