まで行ったのであるが、そのうちに彼の両親は死んでしまった。それから妻のキセ子を貰《もら》ったり、太郎という長男が生まれたり、又は学士から、小学教員になりたいというので、色々と面倒な手続きをして、ヤットの思いで現在の小学校に奉職する事が出来たりしたものであったが、それ迄の間というもの学校の図書館や、人通りの無い国道や、放課後の教室の中なぞでも、幾度となくソンナような知らない声から呼びかけられる経験を繰返したのであった。
しかし彼は、そんな体験を他人に話したことは依然として一度も無かった。ただそのうちにだんだんと年を取って来るにつれて、時々そんな事実にぶつかるたんびに、いくらかずつ気味が悪るくなって来たことは事実であった。……こんな体験を持っている人間は事に依《よ》ると俺ばかりじゃないかしらん。……他人がこんな不思議な体験をした話を、聞いたり読んだりした事が、今までに一度も無いのは何故《なぜ》だろう。……俺は小さい時から一種の精神異状者に生れ付いているのじゃないか知らん……なぞと内々《ないない》で気を付けるようになったものである。
ところが、そのうちに、ちょうど十二三年ばかり前の結婚当時の事、宿直の退屈|凌《しの》ぎに、学校の図書室に這入《はい》り込んで、室の隅に積み重ねて在《あ》る「心霊界」という薄ッペラな雑誌を手に取りながら読むともなく読んでいると、思いがけもなく自分の体験にピッタリし過ぎる位ピッタリした学説を発見したので、彼はドキンとする程驚ろかされたものであった。
それは旧|露西亜《ロシア》のモスコー大学に属する心霊学界の非売雑誌に発表された新学説の抄訳紹介で「自分の魂に呼びかけられる実例」と題する論文であったが、それを読んでみると、正体の無い声に呼びかけられた者は決して彼一人でないことがわかった。
「……何にも雑音の聞こえない密室の中とか、風の無い、シンとした山の中なぞで、或る事を一心に考え詰めたり、何かに気を取られたりしている人間は、色々な不思議な声を聞くことが、よくあるものである。現にウラルの或る地方では「木魂《すだま》に呼びかけられると三年|経《た》たぬうちに死ぬ」という伝説が固く信じられている位であるが、しかもその「スダマ」、もしくは「主《ぬし》の無い声」の正体を、心霊学の研究にかけてみると何でもない。それは自分の霊魂が、自分に呼びかける声に外《ほか》ならないのである。
すなわち一切の人間の性格は、ちょうど代数の因子分解と同様な方式で説明出来るものである。換言すれば一個の人間の性格というものは、その先祖代々から伝わった色々な根性……もしくは魂の相乗積に外ならないので、たとえば([#ここから横組み]A2[#「2」は指数]−B2[#「2」は指数][#ここで横組み終わり])という性格は([#ここから横組み]A+B[#ここで横組み終わり])という父親の性格と([#ここから横組み]A−B[#ここで横組み終わり])という母親の性格が遺伝したものの相乗積に外ならない……と考えられるようなものである。ところでその([#ここから横組み]A2[#「2」は指数]−B2[#「2」は指数][#ここで横組み終わり])という全性格の中でも([#ここから横組み]A−B[#ここで横組み終わり])という一因子《ワンファクター》……換言すれば母親から遺伝した、たとえば「数学好き」という魂が、その([#ここから横組み]A−B[#ここで横組み終わり])的傾向……すなわち数学の研究慾に凝《こ》り固まって、どこまでも他の魂の存在を無視して、超越して行こうとするような事があると、アトに取り残された([#ここから横組み]A+B[#ここで横組み終わり])という魂が、一人ポッチで遊離したまま、徐々と、又は突然に一種の不安定的な心霊作用を起して([#ここから横組み]A−B[#ここで横組み終わり])に呼びかける……つまり一時的に片寄った([#ここから横組み]A−B[#ここで横組み終わり])的性格を([#ここから横組み]A+B[#ここで横組み終わり])の方向へ呼び戻して、以前の全性格([#ここから横組み]A2[#「2」は指数]−B2[#「2」は指数][#ここで横組み終わり])の飽和状態に立ち帰らせるべくモーションをかけるのだ。その魂の呼びかけが、そっくりそのまま声となって錯覚されるので、その声が普通の鼓膜から来た声よりズット深い意識にまで感じられて、人を驚ろかせ、怪しませるのは当然のことでなければならぬ」
といったような論法で、生物の外見の上に現われる遺伝が、組合《くみあわせ》式、一列式、並列式、又は等比、等差なぞいう数理的な配合によって行われているところから説き初めて、精神、もしくは性格、習慣なぞいう心霊関係の遺伝も同様に、数理的の原則によって行われている事実
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