はマセ過ぎた散歩であったが、それでも山好きの彼にとっては、この上もない楽しみに違いなかった。彼はそうした散歩のお蔭で、そこいらの山の中の小径《こみち》という小径を一本残らず記憶《おぼ》え込んでしまっていた。どこにはアケビの蔓《つる》があって、どこには山の芋《いも》が埋まっている。人間の顔によく似た大岩がどこの藪《やぶ》の中に在って、二股《ふたまた》になった幹の間から桜の木を生やした大|榎《えのき》はどこの池の縁に立っているという事まで一々知っていたのは恐らく村中で彼一人であったろう。
ところで彼は、そんな山歩きの途中で、雑木林の中なんぞに、思いがけない空地を発見する事がよくあった。それは大抵、一|反歩《たんぶ》か二反歩ぐらいの広さの四角い草原で、多分屋敷か、畠《はたけ》の跡だろうと思われる平地であったが、立木や何かに蔽《おお》われているために幾度も幾度も近まわりをウロ付きながら、永い事気付かずにいるような空地であった。そのまん中に立ちながら、そこいら中をキョロキョロ見まわしていると、山という山、丘という丘が、どこまでもシイーンと重なり合っていて、彼を取囲《とりかこ》む立木の一本一本が、彼をジイッと見守っているように思われて来る。足の下の枯葉がプチプチと微《かす》かな音を立てて、何となく薄気味が悪くなる位であった。
そんな処を見付けると彼は大喜びで、その空地の中央の枯草に寝ころんで、大好きな数学の本を拡げて、六ヶ《むずか》しい問題の解き方を考えるのであった。むろん鉛筆もノートも無しに空間で考えるので、解き方がわかると、あとは暗算で答を出すだけであったが、両親から呼ばれる気づかいは無いし、隣近所の物音も聞こえないのだから、頭の中が硝子《がらす》のように澄み切って来る。それにつれて家《うち》ではどうしても解けなかった問題が、スラスラと他愛《たあい》もなく解けて行くので、彼はトテモ愉快な気持になって時間の経《た》つのを忘れていることが多かった。
ところが、そんな風に数学の問題に頭を突込んで一心になっている時に限って、思いもかけない背後《うしろ》の方から、ハッキリした声で……オイ……と呼びかける声が聞こえて、彼をビックリさせる事がよくあった。それは、むろん父親の声でもなければ先生の声でも、友達の声でもない。誰の声だか全くわからなかったが、しかし非常にハッキリしていた事だ
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