《たちど》まっている彼自身を発見したのであった。
「……シマッタ……」
 と彼はその時口の中でつぶやいた。……あれだけ位牌《いはい》の前で誓ったのに……済まない事をした……と心の中で思っても見た。けれども最早《もはや》取返しの付かない処まで来ている事に気が付くと、シッカリと奥歯を噛《か》み締めて眼を閉じた。
 それから彼は又も、片手をソッと額に当てながら今一度、背後《うしろ》を振り返ってみた。ここまで伝って来た線路の光景と、今まで考え続けて来た事柄を、逆にさかのぼって考え出そうと努力した。あれだけ真剣に誓い固めた約束を、それから一年近くも過ぎ去った今朝《けさ》に限って、こんなに訳もなく破ってしまったそのそもそもの発端の動機を思い出そうと焦燥《あせ》ったが、しかし、それはモウ十年も昔の事のように彼の記憶から遠ざかっていて、どこをドンナ風に歩いて来たか……いつの間に帽子を後ろ向きに冠《かぶ》り換えたか……鞄を右手に持ち直したかという事すら考え出すことが出来なかった。ただズット以前の習慣通りに、鞄を持ち換え持ち換え線路を伝って、ここまで来たに違い無い事が推測されるだけであった。…………しかしその代りに、たった今ダシヌケに足の下で笑ったものの正体が彼自身にわかりかけたように思ったので、自分の背後《うしろ》の枕木の一つ一つを念を入れて踏み付けながら引返し初めた。すると間もなく彼の立佇《たちど》まっていた処から四五本目の、古い枕木の一方が、彼の体重を支えかねてグイグイと砂利《ざり》の中へ傾き込んだ。その拍子に他の一端が持ち上って軌条の下縁とスレ合いながら……ガガガ……と音を立てたのであった。
 彼はその音を聞くと同時に、タッタ今の笑い声の正体がわかったので、ホッと安心して溜息《ためいき》を吐《つ》いた。それにつれて気が弛《ゆる》んだらしく、頭の毛が一本一本ザワザワザワとして、身体《からだ》中にゾヨゾヨと鳥肌が出来かかったが、彼はそれを打消すように肩を強くゆすり上げた。黒い鞄を二三度左右に持ち換えて、切れるように冷《つ》めたくなった耳朶《みみたぼ》をコスリまわした。それから鼻息の露《つゆ》に濡《ぬ》れた胡麻塩髯《ごましおひげ》を撫《な》でまわして、歪《ゆが》みかけた釣鐘マントの襟《えり》をゆすり直すと、又も、スタスタと学校の方へ線路を伝い初めた。いつも踏切の近くで出会う下りの石炭
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