習慣を打消そうとは決してしなかった。むしろそれが自分だけに許された悲しい権利ででもあるかのように、ツイこの間《あいだ》まで立ち働らいていた妻の病み窶《やつ》れた姿や、現在、先に帰って待っているであろう吾児《わがこ》の元気のいい姿を、それからそれへと眼の前に彷彿《ほうふつ》させるのであった。山番小舎のトボトボと鳴る筧《かけひ》の前で、勝気な眼を光らして米を磨《と》いでいる妻の横顔や、自分の姿が枯木立の間から現われるのを待ちかねたように両手を差し上げて、
「オーイ。お父さーン」
と呼びかける頬《ほっ》ペタの赤い太郎の顔や、その太郎が汲込《くみこ》んで燃やし付けた孫風呂の煙が、山の斜面を切れ切れに這《は》い上って行く形なぞを、過去と現在と重ね合わせて頭の中に描き出すのであった。もっとも時折は、黒い風のような列車の轟音《ごうおん》を遣《や》り過したあとで、枕木の上に立ち止まって、バットの半分に火を点《つ》けながら、
……又きょうも、おんなじ事を考えているな。イクラ考えたって、おんなじ事を……。
と自分で自分の心を冷笑した事もあった。そうして四十を越してから妻を亡くした見窄《みすぼ》らしい自分自身の姿が、こころもち前屈《まえかが》みになって歩いて行く姿を、二三十|間《けん》向うの線路の上に、幻覚的に描き出しながらも……。
……もっともだ。もっともだ。そうした儚《はか》ない追憶に耽《ふけ》るのは、お前のために取残《とりのこ》されているタッタ一つの悲しい特権なのだ。お前以外に、お前のそうした痛々しい追憶を冷笑し得《う》る者がどこに居るのだ……。
と云いたいような、一種の憤慨に似た誇りをさえ感じつつ、眼の中を熱くする事もあった。そうして全国の小学児童に代数や幾何《きか》の面白さを習得さすべく、彼自身の貴い経験によって、心血を傾けて編纂《へんさん》しつつある「小学算術教科書」が思い通りに全国の津々浦々《つづうらうら》にまで普及した嬉しさや、さては又、県視学の眼の前で、複雑な高次方程式に属する四則雑題を見事に解いた教え子の無邪気な笑い顔なぞを思い出しつつ……云い知れぬ喜びや悲しみに交《かわ》る交《がわ》る満たされつつ、口にしたバットの火が消えたのも忘れて行く事が多いのであった。
「……オトウサン……」
という声をツイ耳の傍で聞いたように思ったのはソンナ時であった……。
「…
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