自分の声だかどうだかを、的確に聞き分けてやろうと思って、ショッチュウ心掛けていたものであった。

 ところが、ここに又一つの奇蹟が現われた……というのは外でもない。その本を読んでからというもの、彼はどうしたものか、一度もそんな声にぶつからなくなってしまった事であった。ちょうど正体を看破された幽霊か何《なん》ぞのように、自分を呼びかける自分の声が、ピッタリと姿を見せなくなったので、この七八年というもの彼は忘れるともなしにソノ「自分を呼びかける自分の声」のことを忘れてしまっていた。もっともこの七八年というもの彼は、所帯を持ったり、子供は出来たりで、好きな数学の研究に没頭して、自分の魂を遊離させる機会が些《すく》なかったせいかも知れなかったが……。
 ところが又、その後になって、彼の妻と子供が死んで、ホントウの一人ポッチになってしまうと、不思議にも今云ったような心理現象が又もやハッキリと現われ出して、彼を驚かし初めたのであった。のみならずその声が彼にとっては実にたまらない、身を切るような痛切な形式でもって襲いかかりはじめたので、彼はモウその声に徹底的にタタキ付けられてしまって、息も吐《つ》かれない眼に会わせられることになったのであるが、しかも、そんな事になったそのソモソモの因縁を彼自身によくよく考え廻わしてみると、それはどうやら彼の亡くなった妻の、異常な性格から発端《ほったん》して来ているらしく思われたのであった。
 彼の亡くなった妻のキセ子というのは元来、彼の住んでいる村の村長の娘で、この界隈《かいわい》には珍らしい女学校卒業の才媛《さいえん》であったが、容貌《ようぼう》は勿論のこと、気質までもが尋常《じんじょう》一様の変り方ではなかった。彼が堂々たる銀時計の学士様でいながら、小学校の生徒に数学を教えたいのが一パイで、無理やりに自分の故郷の小学校に奉職しているのに、その横合いから又、無理やりに彼の意気組に共鳴して、一所《いっしょ》になる位の女だったので、ただ子供に対する愛情だけが普通と変っていないのが、寧《むし》ろ不思議な位のものであった。つまり極度にヒステリックな変態的|女丈夫《じょじょうふ》とでも形容されそうな型《タイプ》の女であったが、それだけに又、自分の身体《からだ》が重い肺病に罹《かか》っても、亭主の彼に苦労をかけまいとして、無理に無理を押し通して立働《たちは
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