《しょうじ》。音もなく開きますれば青々とした三畳敷。五分|縁《べり》の南京更紗《なんきんさらさ》。引ずり小手《ごて》の砂壁。楠の天井。一間二枚の襖は銀泥《ぎんでい》に武蔵野の唐紙。楽焼《らくやき》の引手。これを開きますると八畳のお座敷は南向のまわり縁。紅カリンの床板、黒柿の落し掛。南天の柱なぞ、眼を驚かす風流好み。京中を探しましても、これ程のお座敷はよも御座いますまい。満月どのの満足もいかばかりかと存じておりましたが、満つれば欠くる世の習いとか。月にむら雲。花に嵐の比喩《たとえ》も古めかしい事ながら、さて只今と相成りましては痛わしゅうて、情のうて涙がこぼれまする事ばかり……。
何をお隠し申しましょう。満月ことはまだ手前の処で勤めに出ておりまする最中から、重い胸の疾患《やまい》に罹《かか》っておりましたので、いずれに致しましても長い生命《いのち》ではなかったので御座いまする。されば金丸大尽様からの御身請の御話が御座りました時にも、手前の方から商売気を離れまして、この事を残らず大尽様にお打明け致しまして、かかり付けのお医者様順庵様までも御同席願いました上で、かような不治の疾患《やまい》の者を御身請なぞとは勿体ない。満月ことを左程|御贔負《ごひいき》に思召《おぼしめ》し賜わりまするならば、せめて寮へ下げて養生致させまする御薬代なりと賜わりましたならば、当人の身に取り、私どもに取りまして何よりの仕合わせに御座りまする。所詮、行末の計られませぬ病人を、まんろくな者と申しくるめて御引取願いましては商売冥利に尽きますると平に御宥免《おゆるし》を願いましたが、流石《さすが》に長者様とも呼ばるる御方様の御腹中は又格別なもので、さては又あれが御老人の一徹とでも申上るもので御座いましょうか、いやいやそれは要らざる斟酌。楼主《そなた》の心入れは重々|忝《かたじけ》ないが、さればというてこのまま手を引いてしもうてはこっちの心が一つも届かぬ。商売は商売。人情は人情じゃ。皿茶碗の疵物《きずもの》ならば、疵《きず》のわかり次第棄てても仕舞《しま》おうが、生きた人間の病気は、そのようなものと同列には考えられぬ。袖振り合うも他生《たしょう》の縁とやら。それほどの病気ならばこちらへ引取って介抱しとうなるのが人情。まさかに満月の身体《からだ》を無代価《ただ》で引取る訳には行くまいと仰言る、退引《のっぴ》きならぬお話。こちらもその御執心と御道理に負けまして、満月をお渡し申上げたような次第で御座りまする。……が……。
……さて満月さんをお引取りになりましてからの大尽さまのお心づくしというものは、それはそれは心にも言葉にも悉《つ》くされる事では御座いませなんだ。京大阪の良いお医者というお医者を尋ね求め、また別に人をお遣わしなされて日本中にありとあらゆる癆※[#「やまいだれ+亥」、第3水準1−88−46]《ろうがい》のお薬をお求めになりました。そのほか大法、秘法の数々、加持《かじ》、祈祷のあらん限り、手をつくし品を換えての御介抱で御座いましたが、定まる生命《いのち》というものは致し方のないもので、去年の夏もようように過ぎて秋風の立ちまする頃、果敢《はか》なくも二十一歳を一期《いちご》としてこの世の光りを見納めました。その夜は如何ようなめぐり合わせでも御座りましつろうか、拭うたような仲秋の満月の夜で御座いましたが、重たい枕を上げる力ものうなりました人間の満月どのは、おろおろしておいでになりまする金丸様のお手と、駈付けて参りました私の手を瘠せ枯れた右と左の手に力なく振って、庭の面《おもて》にさらばう虫の声よりも細々とした息の下に、かような遺言をなされました。
……これまでの方々《かたがた》様の御心づくし、何と御礼を申上げましょうやら。つたないこの身に余り過ぎました栄耀栄華《えいようえいが》。空恐ろしゅうて行く先が思い遣られまする計《ばか》りで御座います。ただ、おゆるし下されませ。金丸様と、御楼主様の御恩のほどは生々世々《しょうじょうせぜ》犬畜生、虫ケラに生れ代りましょうとも決して忘れは致しますまい。
……わたくし幼少《おさな》い時より両親《ふたおや》に死に別れまして、親身《しんみ》の親孝行も致しようのない身の上とて、この上はただ御楼主様《ごないしょさま》の御養育の御恩を、一心にお返しするよりほかに道はないと、そればかりを楽しみに思い詰めて成長《おおき》くなりましたところへ、肉親の親から譲られましたこの重病。いずれ長い寿命はないものと思い諦らめましてからというもの、一も御店のため、二も御楼主様《ごないしょさま》への御恩返しとあらゆる有難い御嫖客様《おきゃくさま》を手玉に取り、いく程の罪を重ねましたことやら。それだけでも来世は地獄に堕ちましょう。その中《うち》にも忘れかねま
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