船が出せるかどうか。五島の城ヶ島まで行けるかどうか。船賃は望み次第出すが……と尋ねてみると、淡白らしい船頭は、城ヶ島なら屈託する事はない。心配する間もないうちに行き着いてしまう。ほかの船なら生命《いのち》がけの賃銀を貰うか知れぬが、この玄海丸に限って無駄な銭は遣わっしゃるな。この風に七分の帆を張れば、明日《あす》の夕方までには海上三十里を渡いて見せまっしょ……と自慢まじりに鼻をうごめかすのであった。
千六は天の助けと喜んだ。すぐに多分の酒手を与えて船頭を初め舟子《かこ》舵取《かんどり》まで上陸させて、自分一人が夜通し船に居残るように計らった。
船の中が空っぽになって日が暮れると、千六は提灯を一つ点《つ》けて忙がしく働き初めた。十個の味噌桶の底にそれぞれ擬《まが》い小判を平等に入れて、上から鋸屑《おがくず》を被《おお》いかぶせ、その上から味噌を詰込んでアラカタ百斤の重さになるように手加減をした。厳重に蓋をして目張りを打つと、残った味噌と鋸屑《おがくず》は皆、海に投込んでしまった。アトを綺麗に掃出《はきだ》して、海岸を流して行く支那ソバを二つ喰うと、知らぬ顔をして寝てしまった。
翌る朝は、まだ夜《よ》の明けないうちに船頭たちが帰って来た。昨夜《ゆんべ》の酒手が利いたらしくキビキビと立働らいて、間もなく帆を十分に引上げると、港中の注視の的になりながら、これ見よがしに港口を出るや否や、マトモ一パイに孕んだ帆を七分三分に引下げた。暴風雨《あらし》模様の高浪を追越し追越し、白泡を噛み、飛沫《しぶき》を蹴上げて天馬|空《くう》を駛《はし》るが如く、五島列島の北の端、城ヶ島を目がけて一直線。その日の夕方も、まだ日の高いうちに、野崎島をめぐって神之浦《こうのうら》へ切れ込むと、そこへ山のような和蘭陀《オランダ》船が一艘|碇泊《かか》って、風待ちをしているのが眼に付いた。
「ナアルほどなあ。千六旦那の眼ンクリ玉はチイット計《ばか》り違わっしゃるばい。摺鉢《すりばち》の底の長崎から、この船の風待ちが見えとるけになあ。ハハハハ……」
と感心する船頭の笑い声を眼で押えた千六は、兼ねて用意していた福昌号の三角旗を船の舳に立てさした。風のない島影の海岸近くをスルスルと辷《すべ》るように和蘭《オランダ》船へ接近して帆を卸《おろ》すと、ピッタリと横付けにした。
船の甲板から人相の悪い紅毛人の顔がズラリと並んで覗いていた。口々に和蘭《オランダ》語で叫んだ。
「何だ貴様は……何だ何だ……」
千六はもう長崎に来てから、各国の言葉に通じていた。その中《うち》でも和蘭《オランダ》語は最も得意とするところであった。
「福昌号から荷物を受取りに来ました。この頃、長崎の役人の調べが急に八釜《やかま》しくなって、仕事が危険《やば》くなりましたのに、この風で船が出なくなって、皆青くなっているところです。支那人はみんな臆病ですから、私が頼まれて四百五十斤の小判を積んで、嵐を乗切って来たのです。どうぞ荷物を渡して下さい」
と殆んど疑問の余地を残さないくらい巧妙に、スラスラと説明した。
「フーム。そうかそうか。それじゃ上れ」
と云うと船から梯子《はしご》を卸《おろ》してくれたので千六は内心ビクビクしながら船頭と二人で上って行った。そうして船長室で船長に会って葡萄酒と珈琲《コーヒー》と、見た事もない美味《おいし》い果物を御馳走になった。
千六は福昌号の信用の素晴らしいのに驚いた。積んで来た十個の味噌樽が全部、ロクに調べもせずに和蘭《オランダ》船に積込まれて、代りに夥しい羅紗《ラシャ》とギヤマンの梱包が、玄海丸に積込まれた。まだ羅紗と、絹緞《けんどん》と翡翠《ひすい》の梱包が半分以上残っているが、この風と玄海丸の船腹では積切れまいし、こっちも実はこの風が惜しいばかりでなく、非常に先を急ぐのだから、向うの海岸に卸しておく。今一度長崎へ帰って、風を見てから積取りに来いと云って、千六と船頭を卸すと、和蘭《オランダ》船はその夜のうちに、白泡を噛む外洋に出て行ってしまった。
アト見送った千六は慌しく船頭の耳に口を寄せた。
「直ぐにこの船を出いておくれんか。この風を間切《まぎ》って呼子《よぶこ》へ廻わってんか。途中でインチキの小判と気が付いて引返やいて来よったら叶《かな》わん。和蘭陀《オランダ》船は向い風でも構いよらんけに……呼子まで百両出す。百両……なあ。紀国屋文左衛門や。道程《みちのり》が近いよって割合にしたら千両にも当るてや、なあ。男は度胸や……。あとはコンタの腕次第や。酒手を別にモウ五十両出す……」
玄海丸は思い切って碇《いかり》を抜いた。それこそ紀国屋文左衛門式の非常な冒険的な難航海の後《のち》、翌る日の夕方呼子港へ這入った。そこで玄海丸を乗棄てた千六は巧みに役人の眼
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