晶のような涙がタッタ二すじ、右と左へ、緞子の枕に伝わり落ちると思ううちに、あるかないかの息が絶えました。それはちょうど大空の澄み渡った満月が、御病室の屋《や》の棟を超える時刻で御座いました。
 ……金丸長者様の御歎きは申すまでも御座いませぬ。この世の無常とやらを深くもお悟りになったので御座いましょう。それから間もなく、さしもにお美事なお住居《すまい》をお建て換えになりまして一宇のお寺を建立なされ、無明山満月寺と寺号をお附けになりました。去るあたりから尊い智識をお迎えになりまして御住職となされ、満月どののために仰山《ぎょうさん》な施餓鬼《せがき》をなされまして、御自身も頭を丸めて法体《ほったい》となり、法名を友月《ゆうげつ》と名乗り、朝から晩まで鉦《かね》をたたいて京洛の町中を念仏してまわり、満月どのの菩提を弔うておいでになりまする。先祖代々|算盤《そろばん》を生命《いのち》と思うておりまする私どもまでも、その友月上人様の御痛わしいお姿を拝みまする度毎《たびごと》に、まことに眼も眩《く》れ、心もしどろになりまするばかり……」
 と云ううちに松本楼の主人は涙を押えて声を呑んだ。
 銀之丞も、千六も、もう正体もなく泣崩れていた。ことに播磨屋の千六は町人のボンチ上りだけに、取止めもなく声を放ってワアワアと泣出すのであった。

 嵯峨野の奥、無明山満月寺の裏手に、桜吹雪に囲まれた一基の美事な新墓が建っている。正面に名娼満月之墓と金字を彫り、裏に宝暦二年仲秋行年二十一歳と刻《きざ》んである。
 その前に香華を手向けて礼拝を遂げた老僧と新発意《しんぼち》二人。老僧は金丸長者の後身|友月《ゆうげつ》。新発意の一人は俗名銀之丞こと友銀《ゆうぎん》、今一人は千六こと友雲であった。いずれも三月二十一日……思い出も深い島原の道中から七日目のきょう、一切合財の財産を思い切って満月寺に寄進し、当住職を導師として剃髪し、先輩の老僧友月と共に、満一年振りの変り果てた満月の姿を拝んだのであった。
 三人は三人とも、今更に夢のような昔を偲《しの》び、今を思うて代る代る法衣の袖を絞り合った。暫くは墓の前を立上る気色もなかったが、やがて一しきり渦巻く落花の吹雪の中を三人はよろよろと満月の墓前からよろめき出た。
 三人は並んで山門を出ると人も無い郊外の田圃道を後になり先になり列を作って鉦《かね》をたたいた。
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