きならぬお話。こちらもその御執心と御道理に負けまして、満月をお渡し申上げたような次第で御座りまする。……が……。
 ……さて満月さんをお引取りになりましてからの大尽さまのお心づくしというものは、それはそれは心にも言葉にも悉《つ》くされる事では御座いませなんだ。京大阪の良いお医者というお医者を尋ね求め、また別に人をお遣わしなされて日本中にありとあらゆる癆※[#「やまいだれ+亥」、第3水準1−88−46]《ろうがい》のお薬をお求めになりました。そのほか大法、秘法の数々、加持《かじ》、祈祷のあらん限り、手をつくし品を換えての御介抱で御座いましたが、定まる生命《いのち》というものは致し方のないもので、去年の夏もようように過ぎて秋風の立ちまする頃、果敢《はか》なくも二十一歳を一期《いちご》としてこの世の光りを見納めました。その夜は如何ようなめぐり合わせでも御座りましつろうか、拭うたような仲秋の満月の夜で御座いましたが、重たい枕を上げる力ものうなりました人間の満月どのは、おろおろしておいでになりまする金丸様のお手と、駈付けて参りました私の手を瘠せ枯れた右と左の手に力なく振って、庭の面《おもて》にさらばう虫の声よりも細々とした息の下に、かような遺言をなされました。
 ……これまでの方々《かたがた》様の御心づくし、何と御礼を申上げましょうやら。つたないこの身に余り過ぎました栄耀栄華《えいようえいが》。空恐ろしゅうて行く先が思い遣られまする計《ばか》りで御座います。ただ、おゆるし下されませ。金丸様と、御楼主様の御恩のほどは生々世々《しょうじょうせぜ》犬畜生、虫ケラに生れ代りましょうとも決して忘れは致しますまい。
 ……わたくし幼少《おさな》い時より両親《ふたおや》に死に別れまして、親身《しんみ》の親孝行も致しようのない身の上とて、この上はただ御楼主様《ごないしょさま》の御養育の御恩を、一心にお返しするよりほかに道はないと、そればかりを楽しみに思い詰めて成長《おおき》くなりましたところへ、肉親の親から譲られましたこの重病。いずれ長い寿命はないものと思い諦らめましてからというもの、一も御店のため、二も御楼主様《ごないしょさま》への御恩返しとあらゆる有難い御嫖客様《おきゃくさま》を手玉に取り、いく程の罪を重ねましたことやら。それだけでも来世は地獄に堕ちましょう。その中《うち》にも忘れかねま
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