える。余の諱《いみな》じゃ。今日より塙代与一忠純と名乗れい」
 一座の者が皆ため息をした。これ程の御機嫌、これ程の名誉は先代以来無い事であった。
 しかし与一は眉一つ動かさなかった。その膝の上のお墨付と、その上に重ねた絵を両手で押えて、ジッと見詰めているうちに、涙を一しずくポタリと紙の中央《まんなか》に落した。……と思ううちに又一しずく……しまいには止め度もなくバラバラと滴《したた》り落ちて、薄墨の馬の絵が見る見る散りニジンで行った。
「コレコレ。勿体ない。お墨付の上に……」
 と尾藤内記が慌てて取上げようとした。
「サアサア。有難くお暇《いとま》申上げい」
 と淵老人が催促したが、忠之が手をあげて制した。
「ああ……棄ておけ棄ておけ。苦しゅうない。……コレコレ小僧。見苦しいぞ……何を泣くのじゃ。まだ何ぞ欲しいのか……」
「お祖父《じい》様……」
 と与一が蚊の泣くような声を洩らした。
「ナニ。お祖父様が欲しい」
 与一は簡単にうなずいた。
「アハハハハハハハハハ……」
「オホホホホホホホホ……」
 という笑い声が、お局《つぼね》じゅうに流れ漂うた。
「アハハハ。たわけた事を申す。そちの祖父は腹切って失せたではないか。……のう。そちが詰腹切らせたではないか」
「お祖父様にこの絵が……」
「ナニ。祖父にこの絵を見せたいと云うか」
 肩を震わしてうなずいた与一は、ワッとばかりに絵の上に泣き伏した。
「コリャコリャ、勿体ない。御直筆の上に……」
 と淵老人が与一を引起しかかった。
「棄ておけッ」
 と忠之が突然に叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]した。何事がお気に障ったか……と思う間もなく、厚く襲《かさ》ねた座布団の上から臂を伸ばした忠之は、与一の襟元を無手と引掴《ひきつか》んだ。力任せにズルズルと引寄せて膝の上に抱え上げた。白|綸子《りんず》の両袖の間にシッカリと抱締めて、たまらなく頬ずりをした。
「……与一ッ。許せ……余が浅慮であったぞや……あったら武士を死なしたわい。許いてくれい、許いてくれい。これから祖父の代りに身共に抱かれてくれい。のう。のう……」
 与一は忠之の首に縋り付いたまま思い切り声を放って泣いた。
「お祖父《じい》様、お祖父《じい》様。お祖父《じい》様ア……お祖父《じい》様ァ……お祖父《じい》様えのう……」
 クシャクシャになったお墨付と馬の
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