は、哈爾賓《ハルピン》の市外で、露人に誘拐されて満洲里《マンチユリー》に連れて行かれる途中、列車の中で射殺されて鉄橋の下に投棄てられていたという事実が報道されている。しかもこの報道を聞いた母の弓子は流産をした上に発狂して、何も喰わずに飢死してしまった。
抜目のない伯父は妹の弓子に一万円の生命保険をかけておいたので、その金も自分のものとしてしまった。そうして私たち兄弟に、僅か千円ばかりの葬式の費用を投与えたきり、砂金の採掘権を支那人に売渡して、印度《インド》に行ってしまった。
私の母親弓子が発狂した時に口走った事実を綜合すると、そうした伯父の非道な所業《しごと》は全部事実と思われるばかりでない。伯父がズット以前から雲月斎玉兎女史の隠れたる後援者であった関係から、この残忍悪辣な工作は二人の共謀の仕事と疑えば疑えたのであるが、その当時、弟はまだ幼稚《ちいさ》かったし、感付いていたのは私一人だったから証拠らしいものは何一つ残っていない。だから私は今日まで……否《いな》死ぬまで弟には打明けまいと決心していたのだ。
しかし私の生命《いのち》がアト二週間しかないとなると、すこし話が違って来る。卑怯な云い草のようであるが、伯父の過去の罪を清算してやって、私の弟を一躍巨万の富豪にしてやる冒険が、必ずしも冒険でなくなって来るのだ。
私はいつの間にか眠ってしまったらしい。
翌る日は久し振り汽車に乗ったせいか、無暗《むやみ》に腹が減った。ボーイに笑われる覚悟で三度目に食堂に入っていると間もなく左手に富士山が見えた。多分今生の見納めであろう富士山が……。
[#天から2字下げ]富士が嶺《ね》は吾が思ふ国に生《な》り出でて
[#天から7字下げ]吾が思ふごと高く清らなる
コンナ和歌が私の唇から辷《すべ》り出た。他人の歌を暗記していたのか、私が初めて詠《よ》んだのかわからない。それ程スラスラと私の頭から辷り出た。辞世というものはコンナ風にして出来るものかも知れないと思うと思わず胸がドキンドキンとした。富士山は日本の大動脈瘤じゃないか知らん……といったような怪奇な聯想も浮かんだがコイツはどうしても歌にならなかった。
東京駅で降りて築地の八方館という小さな宿屋に風呂敷包とバスケットを投込むと直ぐに理髪店に行った。頭を真中からテカテカに分けて、モミアゲを短かくして、鼻の下の無精鬚をチョッピリ剃り残すとスッカリ人相が変ってしまった。それから夕方になるのを待ちかねて銀座に出て、ズラリと並んでいるカフェエや酒場を新橋の方からなし崩しに漁《あさ》り初めた。絶縁同様になっている伯父の行衛《ゆくえ》を探すにはこの方法以外に方法はない……日印協会に問合わせたり、区役所を調べてまわったり、古馴染《ふるなじみ》の右傾団体から手をまわしたりして万一感付かれたらカタナシになる。電話帳に本名を出しとくような狐狸《こり》とは段違いの怪物だからウッカリした事は出来ないと思ったからだ。
私は何とかして不意打に伯父に会わねばならぬ。ズバリと度胆《どぎも》を抜いて頭ゴナシの短時間に退引《のっぴき》ならぬところへ逐《お》い詰めてしまわねばならぬ。
カフェ探訪の最初の晩は大馬力をかけて廻ったので十四五軒程片付いたが、それでも左側の軒並二町とは片付いてはいなかった。
しかし私は屁古垂《へこた》れなかった。よっぽど私立探偵に頼もうかと思ったが、この問題は絶対に他人に嗅《か》がしてはいけないと思ったので、どこまでも自分自身に調べて行った。
そのうちに金はまだイクラカ残っているがカンジン・カナメの二週間の日限が切れそうになって来た。伯父の経営する店を発見しない中《うち》に私の心臓がパンクしてしまえばソレッキリである。Q大の十一号病室で弟に残りの三百円を呉《く》れてしまって自殺した方がまだしも有意義だった……という事になる。
二週間がアト一日となった五月十一日は折角《せっかく》晴れ続いていた天気が引っくり返って、朝から梅雨《つゆ》のような雨がシトシトと降っていた。
何も私の大動脈瘤の寿命が四月二十七日からキッカリ二週間と、科学的に測定されている訳ではなかったけれども、起上ってみると妙に左の肋骨の下が、ドキドキドキと重苦しく突張り返って来るような気がした。
私は見違えるほど痩せ衰えた自分の顔を洗面所の鏡の中に覗いてみた。心臓を警戒して久しく湯に這入らなかったせいか皮膚が鉛色にドス黒くなって睡眠不足の白眼が真鍮色《しんちゅういろ》に光っている。何となく死相を帯びているモノスゴサは、さながらにお能の幽霊の仮面《めん》だ。自分でも気になったので、安全|剃刀《かみそり》で叮嚀に剃って、女中からクリームとパウダを貰ってタタキ付けた。午後になると、自分の心が自分の心でないような奇妙な気持で、依然として青々と降り続ける小雨の中をフラフラと銀座に出た。
私の仕事の範囲はもう残り少なになって来た。
京橋際に近いとある洋品店と額縁《がくぶち》屋の間に在る狭い横路地の前を通ると、その奥に何か在りそうな気がしたので、肩を横にして一町ばかり進入してみた。
私は間もなく漆喰《しっくい》でタタキ固めた三間四方ばかりの空地に出た。
正面の頑丈な木の扉《ドア》に、小児の頭ぐらいの真鍮鋲《しんちゅうびょう》を一面に打ち並べた倉庫のような石造洋館が立塞《たちふさ》がっている。残りの三方は巨大なコンクリート建築の一端で正方形に囲まれている。そのビルデングの背中に高く高く突上げられた十坪ほどの灰色の平面から薄光りする雨がスイスイスイと無限に落ちて来る。
「イラッシャアイ……」
耳の傍で突然に奇妙な声がしたので私はビックリした。
私の眼の前……空地のマン中に、天から降ったような巨大な印度人が突立っている。
私は一歩|退《しりぞ》いた。眼を丸くしてその印度人を見上げた。
二
体重三十貫近くもあろうかと思われる太刀《たち》山さながらの偉大な体格だ。頭の上に美事なターバンを巻付けているので一層物々しく、素晴らしく見える。太い毒々しいゲジゲジ眉の下に茶色の眼が奥深く光って、鼻がヤタラに高い。ダブダブの印度服に、無恰好なゴム長靴を穿いて一瞬間私を胡乱《うろん》臭そうな眼付で見たが、やがて頭をピョコリと下げて見せた。
私は何だかここいらに伯父の巣窟がありそうに思えたので、その印度人に握手する振りをして十円札を一枚握らせると、印度人は私の気前のいいのに驚いたらしい。
毛ムクジャラの両手を胸に当てて、最高級の敬礼をした。直ぐ背後《うしろ》に在る真鍮鋲の扉《ドア》を押して開いて、私を迎え入れるべくニッコリと愛嬌笑いをした。
扉《ドア》の内側は豪華なモザイクのタイルを張詰めた玄関になっていた。そのタイルの片隅に横たえられた長椅子にタキシードを着た屈強の男が三人、腕組みをして並んでいたが一眼で用心棒という事がわかる。その中の一人が印度人の眼くばせを受けると慌てて立って釘のように折れ曲りながら私に一礼した。右手の地下室に通ずる扉《ドア》を開いて、私を導き入れると、ピシャンと背後《うしろ》から扉《ドア》を閉じた。
私は青い光りに照されているマット敷の階段を恐る恐る降りて、突当りの廻転|扉《ドア》をくぐると忽ち真暗になってしまったが、間もなくその暗闇の中から、冷たい小さな女の手が出て来て、私の左手をシッカリと握った。ヒヤリヒヤリと頬に触れる木葉《きのは》の間を潜り抜けながら奥の方へ引張り込んでいった。
私は恐ろしく緊張させられてしまった。早稲田在学当時、深夜の諏訪の森の中で決闘した当時の事を思い出させられたので……。
ところが、そうした樹の茂みの中を、だんだんと奥の方へ分入ってみると驚いた。決闘どころの騒ぎでない。
詳しい事実は避けるが、さながらに極楽と云おうか、地獄と形容しようか。活動写真あり。浴場あり。洞窟あり。劇場あり……そんなものを見まわしながら生汗《なまあせ》を掻いて行くうちに、やがて蛍色の情熱的な光りに満ち満ちた一つのホールに出た。棕梠《しゅろ》、芭蕉、椰子樹《やしじゅ》、檳榔樹《びんろうじゅ》、菩提樹《ぼだいじゅ》が重なり合った中に白い卓子《テーブル》と籐椅子《とういす》が散在している。東京の中央とは思えない静けさである。
私は何がなしにホッとしながら護謨樹《ゴムじゅ》の蔭にドッカリと腰を据えた。そこで今まで私の手を引いて来た女の顔をシッカリと見た。
女はオズオズと私の前にプレン・ソーダのコップを捧げていた。
栗色の夥しい渦巻毛《うずまきげ》を肩から胸まで波打たせて、黄色い裾の長いワンピース式の印度服を着ている。灰色の青白い光沢を帯びた皮膚に、濃い睫毛《まつげ》に囲まれた、切目の長い二重瞼《ふたえまぶた》、茶色の澄んだ瞳。黒く長い三日月眉。細《ほっそ》りと締まった顎。小さい珊瑚《さんご》色の唇。両耳にブラ下げた巨大な真珠……それが頬をポッと染めながら大きな瞬きをした。何となく悲しく憂鬱な、又は恥かし気な白い歯の光りだ。印度人に相違ないが、恐しく気品のある顔立ちだ。
私は指の切れる程冷めたいソーダ水のコップを受取った。
「君の名は何ての?」
「アダリー」
女の両頬と顎に浮いた笑凹《えくぼ》が出来た。頬が真赤になって瞳が美しく潤んだ。私は又、驚いた。どう見ても処女である。コンナ処に居る女じゃない。
「いつからこの店に出たの」
「今日から……タッタ今……」
「今まで何をしていたの」
「妹のマヤールと一緒に日本の言葉習っておりましたの」
「どこに居るの、そのマヤールさんは……」
「二階のお母さんの処に居ります」
「フウン……お父さんはどこに居りますか」
私の言葉が自然と叮嚀《ていねい》になった。
「私たちのお父さん、印度に居ります」
「イヤ。そのお母さんの旦那様です。わかりますか」
「わかります。私の印度に居るお父様が、西洋人から領地を取上げられかけた時に、私たち姉妹《きょうだい》を買い取って、お父様を助けて下すった方でしょ」
「そうです。その方の名前は何と云いますか」
「二階のお母さんの旦那様です。須婆田さんと云います」
私の胸は躍った。
「そうそう。その須婆田さんです。どこに居られますか。その須婆田さんは……」
「表に居なさいます」
「表に……? 表のどこに……」
「印度人になって立っていなさいます」
「アッ。あの印度人ですか。僕は真物《ほんもの》かと思った」
「須婆田さんはホントの印度人です」
「成る程成る程。貴女《あなた》はそう思うでしょう。スゴイ腕前だ。それじゃ十円上げますから僕の云う事を聞いて下さい」
「嬉しい。抱いて頂戴……」
と叫ぶなりアダリーは私の首に両腕を巻き付けた。異国人の体臭が息苦しい程私を包んだ。誰に仕込まれた嬌態か知らないが私は急に馬鹿馬鹿しくなった。
「馬鹿……ソレどころじゃないんだ。入口へ案内してくれ給え」
「……あの……会わないで下さい。どうぞ……」
アダリーは早くも私の顔色から何か知ら危険な或るものを読んだらしい。
「イヤ。心配しなくともいいんだよ。お前を身請《みうけ》するのだ」
「……ミウケ……」
「そうだ。お前を俺が伯父さんから買うのだ」
「エッ。ホント……?」
「ホントだとも。俺は果物屋の主人なんだ。お前を店の売子にするんだ。いいだろう」
「嬉しい。妾《わたし》歌を唄います」
「歌なんか唄わなくともいい。二階のお母さんていうのは雲月斎玉兎っていう奇麗な人だろう」
「イイエ。違います。ウノコ・スパダっていう人です」
「おんなじ事だ」
こんな会話をしているうちにアダリーは私を導いて、暗い地下室の階段を登り詰めた。右手に狭い暗い木の階段が在る。ちょうど玄関の用心棒連が腰をかけている背後《うしろ》らしい。
「二階へ行くのはこの階段だろう」
「ハイ。あたしここより外へは出られません」
「ヨシ。あの部屋に帰って待ってろ。今に主人の須婆田さんが呼びに行くから……」
玄関には最前の通り用心棒らしいタキシード男が三人、腰をかけて腕を組んで
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