として這入って来た。
「ヤア。醒めましたか。頭が痛くないですか」
「そう云われてみると成る程頭が痛いし、胸がすこしムカムカするようだ。イヤ、大丈夫です。先頃はどうも……」
「アハハ。イヤ失礼しました。ビックリなすったでしょう。無断でコンナ処へ連れて来たもんですから」
「実は驚いているんです。どうしたんですか、一体これは……」
「先ずこれを御覧なさい」
 古木先生はすこし真面目になって背後《うしろ》を振返った。古木先生の白い服の蔭に隠れていたアダリーが丸い筒を差出した。古木先生は、その筒の蓋をスポンと抜いて、中から黒い大きなセルロイドみたような正方形の紙を出した。空の方向に差し出して私に透かしてみせた。それは大きな医学用写真フイルムであった。人間の肋骨らしいものが黒く波打って並んでいる下の方に、白い雲みたようなものがボーとボヤケている。
「この白いものが貴方の心臓なのです」
「僕の心臓……」
「そうです。よく御覧下さい。ここが心臓の右心室でここが左心室です。ここから出た大動脈がコンナにグルリと一うねりして重なり合っているでしょう。おわかりになりますか」
「わかります。ゴムの管みたいに『の』の字形に曲って重なり合っているようですね」
「そうですそうです。僕はこの写真を撮るためにあなたに痲酔を利かせてこの病院に運び込んだのです。そうしてあの晩のうちに五枚ばかり瞬間写真を撮ってみたのですが、その中でも一番ハッキリ撮れたのがこの一枚です」
「ヘエッ。何のために……」
「何のためって、貴方の伯父さんに頼まれたのですよ」
「エッ。僕の伯父さん。あの須婆田の……まだ生きているのですか」
「ええ御健在ですとも。伯母さんの玉兎女史と一緒に昨夜《ゆうべ》印度へ御出発になりましたよ。銀洋丸で……」
 私は眼をパチパチさした。古木学士はいよいよ眼を細くして反身《そりみ》になった。学士の肩の蔭で、アダリーも可笑《おか》しいのを我慢しながらうつむいている気配である。
「何だか……僕にはわかりません」
「アハハハ……。僕にも深い御事情はわかりませんが、貴方の伯母様ですね。雲月斎玉兎嬢ことウノ子さんは未《ま》だ興行界を引退なさらない前からいつも私の処へ来て深透レントゲンをやっておられたのです。つまり美容の目的から出た産児制限ですね。貴方だから包まずにお話出来ますが、私は貴方の伯母様の御蔭で大学を出て、この病院を開きましたもので、この部屋は伯母様が御入院なさる時のおきまりのお部屋だったのです」
 私は今一度室内の調度を見廻した。路易《ルイ》王朝好み、ロダンのトルソー、セザンヌの静物画……。
「わからない。不思議だ――奇遇だ……」
「イヤ。奇遇じゃないのです。貴方が伯父様と伯母様の計略におかかりになったのです」
「計略に僕が……」
「そうです。私はよく存じております。伯父様と伯母様はよく右翼団体から狙われておいでになるので、いつも防弾衣《ぼうだんぎ》を着ておられたのです。伯母様は又お得意の魔術をもってイザとなるとカラクリ寝台の中に逃げ込まれるので、いつも犯人が掴まってしまうのです。それを貴方は御存じないものですから伯父様と伯母様が、最早《もはや》おなくなりになったものと思い違いなすったのでしょう」
 私は生れて以来コンナに赤面させられた事はなかった。お前は馬鹿だよ……と云われたよりもモット深刻な恥辱を感じた。
「ちょうど四月二十九日の夜《よ》の事です。私は伯母様からお電話がかかりまして、銀座のセイロン紅茶店へ参りまして伯父様と伯母様とに、貴方の弟御さんからスッカリ御事情を承りましたが……」
「エッ。僕の弟……どうして」
「貴方が福岡を御出発なさるのを停車場で発見されて、跡をつけて御上京なすって、伯父さんと伯母さんに一切を打ち明けて御相談になったアトに、伯父様と伯母様は東京中の私立探偵を動員して貴方の御宿を探らせてやっと判明したのが、五月の十一日の午後、貴方が一足違いで築地の八方館をお出かけになった後《あと》でした。そこで伯父様と伯母様はチャント心構えをして待っておいでになるところへ、意外の出来事から貴方の伯父様に対するお気持がわかったので、伯父様は非常に喜ばれました。伯母様も貴方の弟思いの御心持にスッカリ同情されましたが、一足違いで貴方を取逃がされたのを非常に残念がり、八方に部下を飛ばして貴方の行衛《ゆくえ》を探しておられると、両国橋の方向へ行かれる貴方を発見した者が、電話で知らせた。そこで兼ねてから男装して付いていたアダリーさんが直ぐに自動車を飛ばして……」
「アッ。それではあの運転手がアダリー……」
 アダリーは真赤になって古木学士の蔭に隠れた。
「アハハハ。貴方も馴染甲斐《なじみがい》のない人ですね。アダリーさんの顔を見忘れるなんて……しかしアダリーさんも…
前へ 次へ
全14ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング