《どんす》の肘掛椅子に尻餅を突いた。クッションに跳ね返されて辷《すべ》り落ちそうになったので慌てて坐り直した。
「ホホ。最前からの御様子はここから拝見しておりました。お美事なお手の中《うち》に感心致しておりました。失礼ですけど……あのアダ子や……アダ子や……」
「ハイ……」
 返事の声と殆ど同時に私の横手の扉《ドア》が静かに開《あ》いた。耳の横に新しいフリージャの花を飾ったアダリーが、湯気の立つ赤黒い液体を湛えた青い茶碗を二つ載せた銀盆を目八分に捧げて這入って来た。印度風の礼式であろうか。頭の上に押し戴くように一礼しいしい私の前の小|卓子《テーブル》に載せた。
 扉《ドア》の外での切羽詰まった態度はどこへやら、今までの事はどこを風が吹くかという落附きぶりを見せながらアダリーは両手を胸に当てて最敬礼をしいしい立去った。
 その背後《うしろ》姿を扉《ドア》の外へ見送っているうちに私はやっと吾に帰った。同時に余りにも白々しい二人の冷静さに、たまらない怒気が腹の底から煮えくり返って来るのを、どうする事も出来なかった。
 二人は自分達の夫であり、主人である伯父の死体が玄関前に横たわっているのを知っておりながら平気で私を取巻いて、この上もなく冷血な芝居をしている。アダリーが私を扉《ドア》の外に引止めたのは、毒婦玉兎女史に何かしら準備の余裕を与えようとしていたものに相違ない。
 私は、そう気が付くと同時に颯《さっ》と緊張した。
「オホホホ。まあ落付いて下さい。どうぞ印度のお紅茶を一つ……実はあなたに御相談したいことがありますの」
「この上に落付く必要はないです。眼が見えます。耳が聴《きこ》えます。どんな御相談ですか」
「……まあ……随分性急ですね、友太郎さんは……」
 だしぬけに名前を呼ばれて、私はビックリした。しかし、それを顔には出さず、咳払いをした。
「止むを得ません。時日がないですから」
「まあ……時間がない、どうしてですか」
「僕はもう二三日中に死ぬのです。大動脈瘤に罹《かか》っているんです」
「まあ……大動脈瘤と申しますと……」
「前月の二十七日にQ大学で心臓をレントゲンにかけてもらったのです。そうしたら僕の心臓の大動脈の附根に巨大《おおき》な動脈瘤というものがある事が発見されたのです。その時にもう二週間の寿命しかないと、宣告されたのですから、僕の寿命は今日、明日のうちなのです」
 私がそう云ううちに、伯母の化粧した顔色が眼に見えて変化して来た。幾十歳の老婆のように皮膚が張力を失い、唇がわななき、眼の中に一パイ涙ぐんで来た。カップを持つ手がわなわなとふるえ出した。
「ですから御相談に来たのです。……サア……弟をどうしてくれますか」
「そ……それはもう妾《わたし》が引受けて……」
「口先ばかりではいけませんよ伯母さん。僕の眼の前でチャンとした方法を立てて下さい」
「待って……待って下さい。伯父様に一度御相談しないと……」
「馬鹿……その手を喰うと思うか。……この毒婦……」
「エッ、妾が……毒婦ですって……」
「毒婦だ毒婦だ……貴様は俺の伯父を唆《そその》かして、俺の両親の財産を横領させた上に生命《いのち》までも奪ってしまったろう……」
「アッ……そ……それは大変な貴方の思い違いです」
「ナ……ナニを今更ツベコベと……覚悟しろ……」
「アレッ……」
 と叫ぶと同時に玉兎女史は、私の振上げた短刀の刃先をスリ抜けて、寝台の中に飛込んだ。玉虫色の羽根布団を頭から引っ冠ったが、私はこの羽根布団の下の人の形の胸のあたり眼がけて、グサッと短刀を突込んだ。
 だが、不思議や羽根布団がビシャンコになってしまった。慌てて羽根布団をマクリ上げて下を覗いて見た私は、アッと叫んで立竦《たちすく》んだ。羽根布団の下は真赤な血に染ったシーツばかりである。そのシーツの中央には何かあって手を突込んでみると、下はからになっているらしい。こころみに両手で引明けてみると三尺ばかり下には階段があって、青い電燈が点《とも》っているのが見える。
 私は一杯食わされたのだ。雲月斎玉兎女史一流の手品で逃げられてしまったのだ。が、腹を立てても追附く話でない。私は血に染んだ短刀を掴んだまま、ぼうっとしかけたが、落着いて見ると、表の方で時ならぬ声がする。
 立って寝台の向うの窓から覗いて見たが、騒がしい筈だ。狭い路地口には真黒い警官がつめかけていて、この家の周囲《まわり》は蟻《あり》の這い出る隙《すき》もないくらい厳重にとりかこまれているようである。例の用心棒連はその押し合いへし合いしている中に数珠《じゅず》つなぎになってうなだれている。そのほかに、地下室で騒いでいた紳士、半裸体の女優、活動写真技師、女給なぞが、次から次に引っぱり出されて来る。十坪ばかりの空地が芋を洗うように雑沓して来る
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