突当りの廻転|扉《ドア》をくぐると忽ち真暗になってしまったが、間もなくその暗闇の中から、冷たい小さな女の手が出て来て、私の左手をシッカリと握った。ヒヤリヒヤリと頬に触れる木葉《きのは》の間を潜り抜けながら奥の方へ引張り込んでいった。
私は恐ろしく緊張させられてしまった。早稲田在学当時、深夜の諏訪の森の中で決闘した当時の事を思い出させられたので……。
ところが、そうした樹の茂みの中を、だんだんと奥の方へ分入ってみると驚いた。決闘どころの騒ぎでない。
詳しい事実は避けるが、さながらに極楽と云おうか、地獄と形容しようか。活動写真あり。浴場あり。洞窟あり。劇場あり……そんなものを見まわしながら生汗《なまあせ》を掻いて行くうちに、やがて蛍色の情熱的な光りに満ち満ちた一つのホールに出た。棕梠《しゅろ》、芭蕉、椰子樹《やしじゅ》、檳榔樹《びんろうじゅ》、菩提樹《ぼだいじゅ》が重なり合った中に白い卓子《テーブル》と籐椅子《とういす》が散在している。東京の中央とは思えない静けさである。
私は何がなしにホッとしながら護謨樹《ゴムじゅ》の蔭にドッカリと腰を据えた。そこで今まで私の手を引いて来た女の顔をシッカリと見た。
女はオズオズと私の前にプレン・ソーダのコップを捧げていた。
栗色の夥しい渦巻毛《うずまきげ》を肩から胸まで波打たせて、黄色い裾の長いワンピース式の印度服を着ている。灰色の青白い光沢を帯びた皮膚に、濃い睫毛《まつげ》に囲まれた、切目の長い二重瞼《ふたえまぶた》、茶色の澄んだ瞳。黒く長い三日月眉。細《ほっそ》りと締まった顎。小さい珊瑚《さんご》色の唇。両耳にブラ下げた巨大な真珠……それが頬をポッと染めながら大きな瞬きをした。何となく悲しく憂鬱な、又は恥かし気な白い歯の光りだ。印度人に相違ないが、恐しく気品のある顔立ちだ。
私は指の切れる程冷めたいソーダ水のコップを受取った。
「君の名は何ての?」
「アダリー」
女の両頬と顎に浮いた笑凹《えくぼ》が出来た。頬が真赤になって瞳が美しく潤んだ。私は又、驚いた。どう見ても処女である。コンナ処に居る女じゃない。
「いつからこの店に出たの」
「今日から……タッタ今……」
「今まで何をしていたの」
「妹のマヤールと一緒に日本の言葉習っておりましたの」
「どこに居るの、そのマヤールさんは……」
「二階のお母さんの処に居ります」
「フウン……お父さんはどこに居りますか」
私の言葉が自然と叮嚀《ていねい》になった。
「私たちのお父さん、印度に居ります」
「イヤ。そのお母さんの旦那様です。わかりますか」
「わかります。私の印度に居るお父様が、西洋人から領地を取上げられかけた時に、私たち姉妹《きょうだい》を買い取って、お父様を助けて下すった方でしょ」
「そうです。その方の名前は何と云いますか」
「二階のお母さんの旦那様です。須婆田さんと云います」
私の胸は躍った。
「そうそう。その須婆田さんです。どこに居られますか。その須婆田さんは……」
「表に居なさいます」
「表に……? 表のどこに……」
「印度人になって立っていなさいます」
「アッ。あの印度人ですか。僕は真物《ほんもの》かと思った」
「須婆田さんはホントの印度人です」
「成る程成る程。貴女《あなた》はそう思うでしょう。スゴイ腕前だ。それじゃ十円上げますから僕の云う事を聞いて下さい」
「嬉しい。抱いて頂戴……」
と叫ぶなりアダリーは私の首に両腕を巻き付けた。異国人の体臭が息苦しい程私を包んだ。誰に仕込まれた嬌態か知らないが私は急に馬鹿馬鹿しくなった。
「馬鹿……ソレどころじゃないんだ。入口へ案内してくれ給え」
「……あの……会わないで下さい。どうぞ……」
アダリーは早くも私の顔色から何か知ら危険な或るものを読んだらしい。
「イヤ。心配しなくともいいんだよ。お前を身請《みうけ》するのだ」
「……ミウケ……」
「そうだ。お前を俺が伯父さんから買うのだ」
「エッ。ホント……?」
「ホントだとも。俺は果物屋の主人なんだ。お前を店の売子にするんだ。いいだろう」
「嬉しい。妾《わたし》歌を唄います」
「歌なんか唄わなくともいい。二階のお母さんていうのは雲月斎玉兎っていう奇麗な人だろう」
「イイエ。違います。ウノコ・スパダっていう人です」
「おんなじ事だ」
こんな会話をしているうちにアダリーは私を導いて、暗い地下室の階段を登り詰めた。右手に狭い暗い木の階段が在る。ちょうど玄関の用心棒連が腰をかけている背後《うしろ》らしい。
「二階へ行くのはこの階段だろう」
「ハイ。あたしここより外へは出られません」
「ヨシ。あの部屋に帰って待ってろ。今に主人の須婆田さんが呼びに行くから……」
玄関には最前の通り用心棒らしいタキシード男が三人、腰をかけて腕を組んで
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