皆々様
[#ここで字下げ終わり]

◇第二の瓶の内容

 ああ。隠微《かくれ》たるに鑒《み》たまう神様よ。
 この困難《くるしみ》から救わるる道は、私が死ぬよりほかに、どうしても無いので御座いましょうか。
 私たちが、神様の足※[#「登/几」、第4水準2−3−19]《あしだい》と呼んでいる、あの高い崖の上に私がたった一人で登って、いつも二、三匹のフカが遊び泳いでいる、あの底なしの淵の中を、のぞいてみた事は、今までに何度あったかわかりませぬ。そこから今にも身を投げようと思ったことも、いく度《たび》であったか知れませぬ。けれども、そのたんびに、あの憐憫《あわれ》なアヤ子の事を思い出しては、霊魂《たましい》を滅亡《ほろぼ》す深いため息をしいしい、岩の圭角《かど》を降りて来るのでした。私が死にましたならば、あとから、きっと、アヤ子も身を投げるであろうことが、わかり切っているからでした。

       *

 私と、アヤ子の二人が、あのボートの上で、附添いの乳母《ばあや》夫妻や、センチョーサンや、ウンテンシュさん達を、波に浚《さら》われたまま、この小さな離れ島に漂《なが》れついてから、もう何年になりましょうか。この島は年中夏のようで、クリスマスもお正月も、よくわかりませぬが、もう十年ぐらい経っているように思います。
 その時に、私たちが持っていたものは、一本のエンピツと、ナイフと、一冊のノートブックと、一個のムシメガネと、水を入れた三本のビール瓶と、小さな新約聖書《バイブル》が一冊と……それだけでした。
 けれども、私たちは幸福《しあわせ》でした。
 この小さな、緑色に繁茂《しげ》り栄えた島の中には、稀《まれ》に居る大きな蟻《あり》のほかに、私たちを憂患《なやま》す禽《とり》、獣《けもの》、昆虫《はうもの》は一匹も居ませんでした。そうして、その時、十一歳であった私と、七ツになったばかりのアヤ子と二人のために、余るほどの豊饒《ゆたか》な食物が、みちみちておりました。キュウカンチョウだの鸚鵡《おうむ》だの、絵でしか見たことのないゴクラク鳥だの、見たことも聞いたこともない華麗《はなやか》な蝶だのが居りました。おいしいヤシの実だの、パイナプルだの、バナナだの、赤と紫の大きな花だの、香気《かおり》のいい草だの、又は、大きい、小さい鳥の卵だのが、一年中、どこかにありました。鳥や魚なぞは、棒切れでたたくと、何ほどでも取れました。
 私たちは、そんなものを集めて来ると、ムシメガネで、天日《てんぴ》を枯れ草に取って、流れ木に燃やしつけて、焼いて喰べました。
 そのうちに島の東に在る岬と磐《いわ》の間から、キレイな泉が潮の引いた時だけ湧《わ》いているのを見付けましたから、その近くの砂浜の岩の間に、壊れたボートで小舎《こや》を作って、柔らかい枯れ草を集めて、アヤ子と二人で寝られるようにしました。それから小舎《こや》のすぐ横の岩の横腹を、ボートの古釘で四角に掘って、小さな倉庫《くら》みたようなものを作りました。しまいには、外衣《うわぎ》も裏衣《したぎ》も、雨や、風や、岩角に破られてしまって、二人ともホントのヤバン人のように裸体《はだか》になってしまいましたが、それでも朝と晩には、キット二人で、あの神様の足※[#「登/几」、第4水準2−3−19]《あしだい》の崖に登って、聖書《バイブル》を読んで、お父様やお母様のためにお祈りをしました。
 私たちは、それから、お父様とお母様にお手紙を書いて大切なビール瓶の中の一本に入れて、シッカリと樹脂《やに》で封じて、二人で何遍も何遍も接吻《くちづけ》をしてから海の中に投げ込みました。そのビール瓶は、この島のまわりを環《めぐ》る、潮《うしお》の流れに連れられて、ズンズンと海中《わだなか》遠く出て行って、二度とこの島に帰って来ませんでした。私たちはそれから、誰かが助けに来て下さる目標《めじるし》になるように、神様の足※[#「登/几」、第4水準2−3−19]《あしだい》の一番高い処へ、長い棒切れを樹《た》てて、いつも何かしら、青い木の葉を吊しておくようにしました。
 私たちは時々|争論《いさかい》をしました。けれどもすぐに和平《なかなおり》をして、学校ゴツコや何かをするのでした。私はよくアヤ子を生徒にして、聖書の言葉や、字の書き方を教えてやりました。そうして二人とも、聖書を、神様とも、お父様とも、お母様とも、先生とも思って、ムシメガネや、ビール瓶よりもズット大切にして、岩の穴の一番高い棚の上に上げておきました。私たちは、ホントに幸福《しあわせ》で、平安《やすらか》でした。この島は天国のようでした。

       *

 かような離れ島の中の、たった二人切りの幸福《しあわせ》の中に、恐ろしい悪魔が忍び込んで来ようと、どうして
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