て、重たい硝子戸を半分ほど開いた。そこから白い片手を突込んで、方形の瀬戸引きバットに並んでいる数十のメスをあれかこれかと選んでいたが、やがてそのバットの外に、タッタ一つ投げ出してある大型の一本を取り上げた。
 それは小さい薙刀《なぎなた》の形をした薄ッペラなもので、普通の外科には必要の無い、屍体解剖用の円刃刀《えんじんとう》と称する、一番大きいメスであった。この病院では何か外の目的に使われているらしく、柄《え》の近くには黒い銹《さび》の痕跡《あと》さえ見えていたが、彼女はそれを右手の指の中に、逆手《さかて》にシッカリと握り込むと、背後《うしろ》の青白い光線に翳《かざ》しながら二三度空中に振りまわして、キラキラと小さな稲妻を閃《ひら》めかした。それを見上げながら品夫はニッコリと、小児《こども》のような無邪気な微笑を浮かべたが、そのままメスを右手に捧げて、左手で両袖を抱えつつ、開いたままの扉《ドア》の間から、又もリノリウムの廊下に辷《すべ》り出た……と……今度は左に折れて、泉水の上から、病室の方へ抜ける渡殿《わたどの》の薄暗がりを、ホノボノと足探《あしさぐ》りにして、第一の横廊下を左に折れ曲ったが、やがて、その行き詰まりに在る特等病室の前に来た。そうして、やはり何の躊躇《ちゅうちょ》もなく真鍮《しんちゅう》のノッブを引いた。
 十|燭《しょく》の電燈《でんき》に照らされた鉄の寝台《ベッド》の上には、白い蒲団を頭から冠っている人間の姿がムックリと浮き上っていた。その上にメスを捧げたまま、品夫は何かしらジッと考え込んでいるようであったが、やがて上の蒲団を容赦なく引き除《の》けると、髪毛《かみのけ》を濛《もう》と空中に渦巻かせて、寝床《ベッド》の中に倒れ込むようにメスを振りおろした。その枕元から、白い散薬の包紙が一枚、ヒラヒラと床の上に舞い落ちた。
「ムム……オオッ……」と夢のような叫び声がして、白いタオル寝巻に包まれた、青黒い巨大な肉体が起き上りかけた。それはイガ栗頭の黒木繁であったが、毛ムクジャラの両腕を引き曲げて、寝巻の胸に沈み込んだメスの柄を、品夫の右腕と一緒に無手《むず》と掴んだ。
 ……しかし、それをドウしようというような力はもう無かった。血走った白眼を剥《む》き出して、相手の顔をクワッと覗き込んだが、乱れた髪毛の中を一眼見ると、そのまま両眼をシッカリと閉じて、シーツの上にのけぞった。
「……むむッ……チ……畜生ッ。もう……来……た……か……」
 と切れ切れに叫びかけたが、その言葉尻にはヘンテコな節が付いて、流行《はやり》唄の末尾のように意味を成さないまま、わななきふるえつつ消え失せた……と思う間もなく、喰い縛った歯の間から凩《こがらし》のような音を立てて、泡まじりの血を噴き出した。
 しかし品夫は依然として手を弛《ゆる》めなかった。相手の腕の力が抜けて来れば来るほど、スブスブスブと深くメスを刺し込んで行った。そうして大浪《おおなみ》を打つ患者の白いタオル寝巻の胸に、ムクムクムクと散り拡がって行く血の色を楽しむかのように、紅友禅の長襦袢の袖を、左手でだんだん高くまくり上げて、白い、透きとおるような二の腕を、力一パイにしなわせながら、ジロリジロリと前後左右を見まわしていたが、やがて眼の前の逞ましい胸が、一しきりモリモリモリと音を立てて反《そ》りかえって来たと思う間もなく、底深い、血腥《ちなまぐさ》い溜息と一所に、自然自然とピシャンコになって行くのを見ると品夫は、白い唇をシッカリと噛み締めたまま眼を細くして、メスを握り締めている自分の手首を凝視した。大きく、静かに、最後の呼吸を波打たせる相手の胸に、調子を合わせるかのように、彼女自身の呼吸を深く、深く、ゆるやかに張り拡げて行った。そうして相手の呼吸が全く絶えると同時に、彼女自身もピッタリと呼吸を止めて、彫像のように動かなくなった。
「……品夫ッ……」
 という雷のような声が、廊下の方から飛び込んで来たのはその時であった。
 ハッとした品夫は、一瞬間に身を退《ひ》いた。夥《おびただ》しい髪毛《かみのけ》を颯《さっ》と背後《うしろ》にはね除《の》けて、メスを握った右手を高く振り上げかけたが、白い服のまま仁王立ちになっている健策の真青な、引き歪《ゆが》められた顔を眼の前に見ると、急に身を反《そ》らして高らかに笑い出した。
「……ホホホホホホ。ホホホホあなた見ていらっしたの……ホホホホホホ。ステキだったでしょう……妾《わたし》……とうとう讐敵《かたき》を討ったのよ……」
 品夫の手から辷《すべ》り落ちたメスが、床の上に垂直に突立った。同時に気が弛《ゆる》んだらしくグッタリとなった品夫は、両頬を真赤に染めて羞恥《はにかみ》ながら、健策の胸にしなだれかかった。血だらけの両手を白い診察服の襟に
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