ル》を引くと扉《ドア》の外の暗いリノリウムの床に、白い服を着た品夫が横たわっていた。
 健策は無言のまま跪《ひざまず》いて脈を取った。そうして強いて落ちついた態度で、傍に突立っている黒木の顔を見上げると、如何《いか》にも苦々しげに頭を一つ下げた。
「……すみませんが……診察室の扉《と》を開けてくれませんか……」

 その夜の三時をすこし廻った頃であった。
 品夫は作りつけの人形のように伏せていた長い睫《まつげ》を、静かに二三度|上下《うえした》に動かすと、パッチリと眼を見開いた。そうして黒い瞳を空虚《うつろ》のように瞠《みは》りながら、仄暗《ほのくら》い座敷の天井板を永い事見つめていた。
 それから瞬《まばたき》一つせずに、頭をソロソロと左右に傾けて、白いずくめの寝具と、解《と》かし流されたまま、枕の左右に乱れかかっている自分の髪毛《かみのけ》を見た。それから、黒い風呂敷を冠せられている枕元の電気スタンド……床の間に自分が生《い》けた水仙の花……その横の床柱に、白い診察着のまま倚《よ》りかかって腕を組んで睡っている健策の顔……その前の桐の丸火鉢の上で、仄《ほの》かに湯気を吐いている鉄瓶……その蔭に掻巻《かいまき》を冠ったまま突伏している看護婦……そんなものの薄暗い姿を一ツ一ツに見まわした彼女は、その表情をすこしも動かさないまま、又、もとの通りにあおのけになって、しずかに眼を閉じて行った。
 室の中は又も、雪の夜の静寂に帰った。シンシンと鳴る鉄瓶の音と、スヤスヤという看護婦の寝息と、雨戸の外でチョロチョロと樋《とい》を伝い落ちる雪水の音ばかりになった。
 しかし品夫は、ほんとうに眠ったのではなかった。やがて眼を閉じたまま、唇の左右に何ともいえない冷たい微笑を浮かべたと思うと、瞼をウッスリと開きながら、ソロソロと起き上った。両手を前にさし伸べて……手探りをするように身体《からだ》をうねうねと蜒《うね》らして……中心を取りかねているようであったが、そのうちに両手で夜具を押えつけると、スックリと寝床の上に立ち上った。
 彼女はいつもねまき[#「ねまき」に傍点]にしている、十六七歳時代の紅友禅《べにゆうぜん》の長襦袢《ながじゅばん》を着せられていた。その上から紫|扱帯《しごき》の古ぼけたのが一すじ、グルグルと巻き付けてあるきりであったが、そのふくらんだ自分の胸に取り縋《すが》るように、両方の掌《てのひら》をシッカリと押し当てて、素足のまま寝床を降りると、スラスラと畳の上を渡って、芭蕉布《ばしょうふ》張りの襖《ふすま》に手をかけた。その時に、畳に引きはえた襦袢の裾《すそ》が、枕元に近いお盆の上の注射器に触れてカラカラと音を立てた。それにつれて、睡っていた健策が、すこしばかり大きな寝息をしたが、品夫は別に見向きもせず、足を止めようともしなかった。
 芭蕉布の襖が音もなく開くと、寒い風が一しきりスースーと流れ込んで来た。しかし品夫は、そのあとを閉める気も無いらしく、次の間の障子を今一つスーと開くと、そのまま明るい廊下へ出た。その廊下の一方は硝子《ガラス》雨戸になっていて、黒々と拭き込んだ板張りにも、外のお庭の雪の植込みの上にも、タッタ今晴れ渡ったばかりのニッケル色の空から、スバラシイ満月の光りがギラギラとふるえ落ちていたが、品夫は、やはり、そんな光景には眼もくれなかった。恰《あたか》も何者かに導かれるように、半開きの瞳の前の冷たい空間を凝視しつつ、一直線に長い廊下を渡りつくしたが、その行き止まりに在る青ペンキ塗りの扉《ドア》を開いて、薬局の廊下に這入ると、真暗なリノリウムの上を、やはり一直線に進んだらしく、間もなく突き当りの扉《ドア》を押す音がした……と……やがて診察室の中央に吊るされた電球が、眼も眩《くら》むほど輝き出した。
 暖かい奥座敷から、急に氷点以下の寒い処に出て来たせいか、品夫の血色は全く無くなっていた。顔も手足も、それこそ雪のように真白く透きとおっていたが、それが黒い髪を長々とうしろへ垂らして、燃え立つような長襦袢を裾も露《あら》わに引きはえつつ、青白い光線をふり仰いで眼を細くした姿は淫《みだ》りがましいと云おうか、神々《こうごう》しいと形容しようか。人間の眼に触れてはならぬ妖艶《なまめか》しさの極み……そのものの姿であった。
 しかし、雪に鎖《とざ》された藤沢病院の、深夜の診察室に、こんな姿が立ち現われていようことは、誰一人思い及び得よう筈が無かった。すべては零下何度の空気に包まれて、シンカンと寝静まっていた。そのような静けさの中にスックリと立ち止まった品夫は、いかにも眩《まぶ》しそうなウッスリした眼つきで、そこいらを一渡り見まわしていたが、間もなく室《へや》の隅に置いてある四方硝子張りの戸棚に眼をつけると、ヒタヒタと歩み寄っ
前へ 次へ
全14ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング