やはりその頃の事であったと思う。
父は六歳になった筆者を背中に乗せて水泳を試み、那珂《なか》川の洲口《すぐち》を泳ぎ渡って向うの石の突堤に取着き、直ぐに引返して又モトの砂浜に上った。滅多に父の背中に負ぶさった事なぞない私はタマラなく嬉しかった。
その父の背中は真白くてヌルヌルと脂切《あぶらぎ》っていた。その左の肩に一ツと、右の背筋の横へ二ツ並んで、小さな無果花《いちじく》色の疣《いぼ》が在った。左の肩へ離れて一ツ在るのが一番大きかったが、その一つ一つに一本|宛《ずつ》、長い毛がチリチリと曲って生えているのが大変に珍らしかったので、陸《おか》に上ってから繰返し繰返し引っぱった。
「痛いぞ痛いぞ。ウフフフ……」
と父が笑った。
父は九歳の時に遠賀《おんが》郡の芦屋《あしや》で、お祖父様の夜網打ちの艫櫓《ともろ》を押したというから、相当水泳が上手であったらしい。那珂川の洲口といえば、今でも海水、河水の交会する、三角波の重畳した難コースで、岸の上から見てもゾッとするのに、負ぶさってる私は怖くも何とも感じなかった。些《すくな》くとも父の肩から上と私の背中だけは水面上に出ていたと思う。
その中《うち》に私等一家はイヨイヨ貧窮して来て、お祖父様も花鳥風月を友とする事が出来なくなられたらしい。お祖母様と、モウ七歳になっていた私を連れて二日市に移住し、漢学の塾を開かれた一方に、母は亡弟|峻《たかし》を抱いて市内柳原に住み、相変らず足袋の底と、軍隊の襯衣《シャツ》に親しんだ。
父は帰って来る都度に、先ず両親を訪い、次いで母と弟を省みた。
二日市の橋元屋という旅館の裏に住んでいる時、突然に父が帰って来て、小さな錻力《ぶりき》のポンプを呉れた時の嬉しかった事は今でも忘れていない。そのポンプはかなり上等のものだったらしく、長いゴムのホースの尖端の筒先から迸《ほとばし》る水が、数間先の土塀を越えて、通行人を驚かした。父は手ずから金盥《かなだらい》に水を入れて二階の板縁に持出し、私と二人でポンプを突いて遊んでくれたが、その中《うち》に退屈したと見えて、私の顔に筒先を向けては大声で笑い興じた。父と二人でアンナに楽しく遊んだ事は前後に一度もない。
その後《のち》、同じ二日市で榊屋《さかきや》の隠宅というのに引越した時に、父が私に羊羹《ようかん》を三キレ新聞紙に包んだのをドンゴロス(ズックの事)の革鞄《かばん》から出してくれた。それが新聞を見た初まりで、私が七歳の時であった。
お祖父様のお仕込みで、小学校入学前に四書の素読《そどく》が一通り済んでいた私は、その振仮名無しの新聞を平気でスラスラと読んだ。それをお祖父様の塾生が見て驚いているのを、父が背後から近づいてソーッとのぞいていることがわかったので、私は一層声を張上げて読み初めた。すると父は何と思ったかチェッと一つ舌打ちして遠ざかって行った。後《あと》でお祖母様から聞いたところによると、その時に父はお祖父様にコンナ事を云ったという。
「十歳で神童。二十歳で才子。三十でタダの人とよく申します。直樹(私の旧名)は病身のおかげでアレだけ出来るのですから、なるべく学問から遠ざけて、身体《からだ》を荒っぽく仕上げて下さい」
これにはお祖父様が不同意であったらしい。益々力を入れて八歳の時には弘道館述義と、詩経《しきょう》の一部と、易経《えききょう》の一部を教えて下すったものであるが、孝経《こうきょう》は、どうしたものか教えて下さらなかった。
とはいえ私は十六七歳になってから、こうした父の言葉を痛切に感佩《かんぱい》し、一も体力、二も体力と考えるようになった。さもなければ私は二十四五位で所謂、夭折《ようせつ》というのをやっていたかも知れない。
因《ちなみ》に弟の峻《たかし》は、私が八歳の時に疫痢《えきり》で死んだ。そのためであったろう。母は又、私の処に帰って来て、大きな乳を私に見せびらかすようになった。同時に私等は、宗像《むなかた》郡|神与《じんよ》村の八並《やつなみ》から筥崎《はこざき》へ移転して来た。
私が九歳の時、お祖父様、お祖母様、母、妹等は筥崎から父に従って上京し、麻布の笄町《こうがいちょう》に住んだ。相当立派な家だったところを見ると、この頃からポツポツ父の社会的地位が出来かけていたものと見える。
父は京橋の本八丁堀に事務所を構え、ヨシ、ミノという二人の俥夫《しゃふ》が引く二人引の俥《くるま》で東京市中を馳けまわっていた。顎鬚《あごひげ》を綺麗《きれい》に削り、鼻の下の髭《ひげ》を短かく摘み、白麻の詰襟服《つめえりふく》で、丸火屋《まるぼや》の台ラムプの蔭に座って、白扇《はくせん》を使っている姿が眼に浮かぶ。
或る時、お祖父様の前で、地球に手足の生えた漫画を表紙にした雑誌を拡げて頻《しき》りに説明していた。
「この雑誌は丸々珍聞という悪い雑誌ですが、私の悪口が盛んに掲載されるのでこの頃は皆、茂丸珍聞と呼んでおります。私も大分有名になりましたよ」
そうした説明に続いて、伊藤、山県、三井、三菱などいう名が出ていたのを、私は何故という事なしにシッカリと記憶していた。
その中《うち》に私の末弟の五郎が生まれると間もなく、お祖父様とお祖母様が東京をお嫌いになって頻《しき》りに生れ故郷を恋しがられるので父は閉口したらしく私と三人で九州に別居するように取計《とりはか》らった。一時博多の北船《きたふね》という処に仮寓して後《のち》、福岡市の西職人町に借家|住居《ずまい》をした。その時にお祖父様は中風に罹《かか》られたが、父は度々帰省してお祖父様を見舞い、その都度に、大工を呼んで板塀や窓の模様を変え、右半身の麻痺硬直したお祖父様に適合する便器を作らせ、又はお祖父様の股間にタムシが出来た時に、色々な薬を配合して手ずから洗って上げたりした。
父が何でも独創でなければ承知しない性格と、後年の建築道楽の癖を、私はこの時から印象して、心から「お父さんはエライ」と思い込んでいた。
三度目に帰省した時に父は鼻の下の髭を剃った。そうしてお祖父様にコンナ事を話した。
「私は社会と共に堕落して行きます。まず第一段の堕落でアゴ髭を剃り、今度の第二段の堕落で鼻の下の髭を剃りました。この次には眉毛を剃って俳優に堕落し、第四の堕落ではクルクル坊主になるつもりですが、まあ、そこまで行かずとも世の中は救えましょう。アハハ」
泣き中気のお祖父様は、そんな父の言葉を聞く毎《ごと》に泣いておられた。
職人町から歴林町《れきりんまち》に引越した時に、お祖父様は亡くなられた。発病以来七年目、私が十二の年であった。中風に肺炎を併発したのが悪かったのであったが、お祖父様が無くなられると直ぐに父は茶を命じて一同を落ち付かせ、お祖父様の清廉潔白の生涯について批評めいた感想を述べ初めたので、皆、シンとなって傾聴していた。私は永年可愛がって下さったお祖父様がイヨイヨホントウに死なれたのかと思うと泣いても泣いても泣き切れない位、悲しかったので、父が何を話していたか殆んど聞いていなかった。
お祖父様のお葬式が済むと間もなく母は妹と、弟を連れて九州に下り、福岡|通町《とおりまち》に住み、祖母と私もそこへ同居し、中学へ通うようになった。
中学に通い初めると間もなく私は宗教、文学、音楽、美術の研究に凝《こ》り、テニスに夢中になった。明らかに当時のモボ兼、文学青年となってしまった。
その十六歳の時、久し振りに帰省した父から将来の目的を問われて、
「私は文学で立ちたいと思います」
と答えた時の父の不愉快そうな顔を今でも忘れない。あんまりイヤな顔をして黙っていたので私はタマラなくなって、
「そんなら美術家になります」
と云ったら父がイヨイヨ不愉快な顔になって私の顔をジイッと見たのでこっちもイヨイヨたまらなくなってしまった。
「そんなら身体《からだ》を丈夫にするために農業をやります」
と云ったら父の顔が忽ち解けて、見る見るニコニコと笑い出したので、私はホッとしたものであった。
「フン。農業なら賛成する。何故かというと貴様は現在、神経過敏の固まりみたようになっている。先刻《さっき》から俺の顔色を見て、ヤタラに目的を変更しているようであるが、そんなダラシのない神経過敏では、今の生存競争の世の中に当って勝てるものでない。芸術とか、宗教とかいうものは神経過敏のオモチャみたようなもので、そんなものに熱中するとイヨイヨ神経過敏になって、人間万事が腹が立ったり、悲しくなったりするものだ。その神経過敏は農業でもやって身体を壮健にすれば自から解消するものだ。だから万事はその上で考えて見る事にせよ。現在の日本は露西亜《ロシヤ》に取られようとしている。日本が亡びたら文学も絵もあったものでない。そのサ中に早く帰って頂戴なナンテ呑気な事が云っておられるか。雪舟の虎の絵を見せても、露西亜兵は退却しやしないぞ」
といったような事を長々と訓戒してくれた。
私は父の熱誠に圧伏されながらも、生涯の楽しみを奪われた悲しさに涙をポトポトと落しながら聞いていた。
その訓戒が済んでから茶を一パイ飲むと父は私を連れて裏庭に出て自分で指《ゆびさ》しながら、木立の枝を私に卸《おろ》させた。私が筋肉薄弱で鎌《かま》が切れず、持て余しているのを見た父は、自分で鎌と鉈《なた》を揮《ふる》って、薪《まき》の束を作り初めたが、その上手なのに驚いてしまった。カチカチ山の狸と兎が背負っているような、恰好のいい蒔の束が、見る間に幾個《いくつ》も幾個も出来たのを、土蔵の背後《うしろ》に高々と積上げた。出入りの百姓で父の幼少時代を知っている老人が、父の野良仕事の上手なのを賞めていたのは決して作り事でもオベッカでもない事を知った。
多分、父は早速私に農業の実地教育をしたつもりであったろう。
十九の時に私は母親に無断で上京して、お祖母様と母親を何故九州に放置しておくか……という事に付いて、猛烈に父に喰ってかかった。すると最後まで黙って聞いていた父はニンガリと笑って云った。
「ウム。貴様の神経過敏はまだ治癒《なお》らぬと見えるな。よし、それでは今から俺が直接に教育してやろう。母さんも東京へ呼んでやろう……」
私は三拝九拝して又涙を流した。
「それには先ず中学を卒業して来い。現在の社会で成功するのに中学以上の学力は要らぬ。それから軍隊へ這入《はい》れ。どこでもええから貴様の好きな聯隊に入れてやる」
中学を出て福岡の市役所に出頭し、徴兵検査を早く受けたいと願ったら、吏員から五月蠅《うるさ》がられたので、母等と共に上京して鎌倉に居住し、麻布聯隊区に籍を移し、たしか乙種で不合格となったのを志願して無理にパスした。身長五尺五寸六分、体量十三|貫《がん》に足りなかった。こうした私の入営に対する熱意を父母は非常に喜んでくれた。
明治四十一年兵として近衛歩兵第一聯隊に配属された私は、極度の過労と、慣れない空気のために見る見る弱り果てて、とうとう第一期の検閲直前に肺炎で入院した。その四十度の高熱の中に、その頃の最新流行の鼠色の舶来|中折《なかおれ》を冠って見舞に来た父の厳粛そのもののような顔を見て、私はモウ死ぬのかなと思った。
「貴様が死なずに少尉になって帰って来たら、この帽子を遣る」
と父は云った。私は病床でその帽子を冠って、ちょうどいいかどうかを試みながら、是非なおって見せる……この帽子を冠らずには措《お》かぬと心に誓った。
「直樹(私の旧名)の奴は俺の子供だけにダイブ変っている。死にかかっていても、油断のならぬところがある」
とその直後に母に語った……と母から聞いた時、私は息苦しい程赤面させられた。
軍隊を出ると体力に自信が出来たので九州に下って地所を買い(現在の香椎村)果樹園を営んだ。その時にも私が思わず赤面するような事を他人に語ったそうである。
「彼奴《あいつ》は全く油断のならぬ奴だ。抵当に這入っている地面を無代価みたようにタタキ落して買うような腕前をいつの間に養っ
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