めと、この三つに限って、無限のゼイタクを許されている訳です。私はこの十円の帽子のお蔭で、大きな悟りを開く事が出来ました。その記念と思ってドウゾこの帽子を冠って下さい」
 お祖父様は、その後《のち》、前記の洋傘《こうもり》と、鼈甲縁の折畳眼鏡と、ラッコの帽子を大自慢にして外出されるようになった。そうして到る処で父の自慢話を初められるのを、いつもお供していた私は、子供心に又初まったと思い思い聞いていた。
 但「染め得たり西湖、柳色の衣」という一句は、たしか唐詩選の中に在ると思っているが、まだ調べていない。意味も何もわからないまま、口調がいいのと、父が力を籠《こ》めてくり返しくり返し云っていたので、その当時から暗記しているだけの事である。

 それから私が五六歳の頃になると、父が久しく帰らず、家が貧窮の極に達していたらしい。住吉の堂々たる住宅から、博多|鰯町《いわしまち》、旧株式取引所裏のアバラ屋に移って、母は軍隊の襯衣《シャツ》縫いや、足袋《たび》の底刺しで夜の眼も合わさず、お祖母さまと当時十七八であった父の妹のかおる伯母の二人は押絵《おしえ》作りにいそしみ、彩紙《いろがみ》や、チリメンの切屑を机一パイに散らかしていた。押絵の三人一組が二円。軍隊の襯衣《シャツ》縫いと足袋の底刺しが一日十何銭、米が一|升《しょう》十銭といったような言葉がまだ六歳の私の耳に一種の凄愴味を帯びて泌み込むようになった。一間四方位の大きな穴の明いた屋根の上の満月を、夜着の袖から顔を出してマジマジと見ていた記憶なぞがハッキリと残っている。
 父が東京から電報為替で金一円也を送って来たのもその頃であったという。
 広崎栄太郎という父の旧友が、賭将棋で勝った金十七銭也を持って来て、私の一家の餓《うえ》を凌《しの》がしてくれたのもその頃の事であったと、その後に父から聞いた。

 その家にどこからともなく帰って来た父が、私の頭を撫でる間もなく、剃刀《かみそり》を取出してしきりに磨ぎ立て、尻をまくってアグラを掻き睾丸《きんたま》の毛を剃り初めたのには驚いた。何でも睾丸《きんたま》にシラミが湧いたから剃るのだ……といったような事を話していたから、余程、落魄《らくはく》して帰って来たものであったらしい。
「門司の石田屋という宿屋で頭山《とうやま》と俺とが宿賃が払えずに、故郷を眼の前に見ながらフン詰まっていた。と
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