事を先程よりの答弁の中《うち》に充分に認める事が出来たのであります」
 この言葉は又法廷の全部をどよめかすに充分でありました。検事が真先に被告の無罪を主張するという事も空前絶後の一つに数えられたからであります。しかも後半の議論に依って、犢の神が果してダメス王の鼻の弁護をしているものか、していないものかがわからなくなってしまいました。これこそ世界最初の詭弁《きべん》ではあるまいかと、益《ますます》一同の耳を引っ立てさせたのであります。
「ダメス王の鼻の無罪を主張する理由は、左の三ヶ条に尽きております。
 第一には、王の鼻が何等かの理由無しに王の顔の真中に存在する筈がないのであります。眼や口なぞいう動的表現役者の真中に取り囲まれながら、悠然として静的表現を守っていられる筈はない。矢張り何等かの動的表現の使命を持っているものと認められなければなりません。
 第二には、鼻という言葉を用いなければ説明の出来ない表現が沢山に存在する事であります。便宜上だけでもよろしい。鼻という文字を使わなければ受け取れない表現の形容が頗《すこぶ》る多いので、どうしても鼻の動的表現を認めなければならぬ事になるのであります。
 第三には、錯覚でも何でもよろしい、鼻というものの動的表現の可能性を認めなければ、社会風教上その他万事につけて不都合なのであります。すべての鼻に絶対に動的表現が無いとすると、眼や口だけで表わしている意志や感情、性格なぞが全然虚偽であっても、その虚偽である事が永久に判明しないで済む事になるのであります。どんな悪心を蔵している奴でも顔付がニコニコしている以上、その悪人である事が永久に露顕しないで終る事が無いとも限りませぬ。ダメス王の虚偽の表現は、その鼻に依って裏切られていたものと認めた方が、神の戒《いまし》め、人の恐れとして誠に結構な実例を残すことになるのであります。さもない限り世間は虚偽の表現のみに埋め尽されて、世道人心は忽ちに腐敗し去るのであります。神は地上に何等の神的表現を見せませぬ。けれども下界の人間は、天体地上の万象を悉く神として尊信しております。さらに恐れ多い事ながら、それ等のすべての主宰として、これ等のすべてを知ろし召す唯一神の神的御在位をも信じ奉っているのであります。況んやこの明知赫燿たる神の法廷に於て、ダメス王のすべてを知っている鼻が、その有意識界無意識界の変化に対して、何等かの表現能力を持っている事を認め得られない筈はありませぬ」
 果せる哉《かな》、検事の論告は、矢張り検事の役目に背いたものでありませんでした。この三ヶ条の議論は表面上、鼻の動的表現能力存在の可能性を極力主張しているようでありますが、よく考えて見ると左様でないのでありました。いくら鼻が動的表現に埋もれていても、何ぼ形容詞が沢山にあっても、何程都合がよくっても、又は鼻が神様と同格のものであるとしても、眼や口と同じような表現を鼻に押しつけるのは無理であるという事を、深く深く認めさせようという議論の立て方でありました。
「動的表現界に於ける鼻の詐欺行為」は、こうして尽《ことごと》く肯定本料に依って埋めつくされそうに見えました。
 この巧妙なる論告に対して静的表現界の代表者、月の神は立上りました。冷やかな態度でかような弁護をしました。
「私は鼻の動的表現を認める事が出来ませぬ。最前の審問に於て、ダメス王の鼻は――記憶せず――と云い抜けて、暗《あん》にその無能力を認めております。
 すべて動的表現をするものは、色か形か何かを動かしていなければなりませぬ。波を切りわけて行く船の舳《じく》は、動的表現をしていなければなりませぬ。嵐の前に黒ずんで行く海も同様であります。船も海も生命があります。動的表現は悉《ことごと》く生命を持っているものでなければ出来ないのであります。
 色も形もかえ得ないものは、総て静的表現しか持たないものと考えなければなりませぬ。死物と同様に見なければなりませぬ。牛の鼻も人間の鼻もこの意味に於て死物同様であります。静的表現ばかりしか持ちませぬ。
 ダメス王の鼻も同様でなければなりませぬ。王の鼻の表現は、死んでも生きても何等の変化も無い筈であります。色彩を施された王の木像の鼻とすこしも変りが無い筈であります。仮令《たとえ》ダメス王の鼻が、その生前に於て眼に止まらぬ位の僅かな変化で、その本人や性格を極めて微弱に表わしておったとしても、眼に見えぬ変化が人に感動を与える筈はありませぬ。鼻の動的表現は悉く錯覚であります。ダメス王の鼻は、王の顔面に築かれたピラミッドに過ぎませぬ」
 この強い、そうして静かな議論は、その一言一句が悉く生と死――動と静の反語ばかりで成り立っている事を並いる神々に認めさせました。同時に鼻は生き物である、神秘世界の産物である、鼻の動的
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