」に傍点]として……人類に与えられた永久に新しい、そうして永久に古い「謎語」として深い注意を払わない訳には参りませぬ。
 人類の作った宗教的、哲学的、又は芸術的の芸術品には、そのいずれの一つとして意味の無いものはありませぬ。その中にただ一つ「謎語」と名付けられて残っている、世界最大最古の象徴的芸術品――「彼は彼自身である」という解釈より外に適当な解釈を下された事の無い「謎語」の像――その「謎語」たる彼自身の真面目を標榜しているべきスフィンクスの鼻の表現が、何故《なにゆえ》とも何事とも知らず欠け落ちている。「謎語」の二乗になっているという事は、「世界歴史が鼻の表現の歴史である。人類の文化が鼻の表現の表現である。それを人類は知らないでいる」という天の啓示ではありますまいか。
 一方から見ますと、人類進化の道程は先ず獣《けもの》から発している事を証せられております。同様に人類文化の推移は、獣心から人心に進むところに在ると解かれております。数千年前にこの意味を象徴し得たエジプトの万有崇拝教が作った文化は、そのスフィンクスの鼻の表現に於てもこれを象徴し得なかった理由はありませぬ。
 しかし同時に、このデザインを建てた程の芸術家ならば、キットこのスフィンクスの鼻の表現を残しておく事が、永久に人類を鼻の表現に対して無自覚に終らしむる所以《ゆえん》である事を考え得ぬ筈はありませぬ。
 ここに於てかその芸術家は、この大作品を当時の埃及《エジプト》王の御覧に供した後《のち》、或る夜|窃《ひそか》に梯子を持って行って、その鼻の表現を自然の作用であるかのように欠き落したのではあるまいかとも考えられます。
 いずれにしてもスフィンクスのスフィンクスたる所以は、その鼻の表現が無くなっているところにあります。そこにあらゆる芸術的判断、又は宗教的哲学的の思索を超越した「謎語」としての価値が感得されるのであります。
 折れたビナス像の腕を再造するという事は、芸術上の大問題になっております。それ程の文化程度に進んだ現代の人類が、スフィンクスの鼻に対し何等の問題を起こさないという事は更に更に大きな「謎語」ではありますまいか。
 スフィンクスは世界の終りまで、鼻を再造してもらう事は出来ないでありましょうか。

     クレオパトラ
       ――運命と鼻の表現(三)

 鼻の欠け落ちた大怪像スフィンクスの傍《かたわら》に住んでいた女王クレオパトラの鼻が、世界の歴史を支配したという事も亦、何等かの暗示を人類に与えずには措《お》きませぬ。些《すくな》くとも鼻の表現の研究上、かのスフィンクスと相対して、最も奇抜な、そして興味津々たるコントラストを見せている事を否定する訳に参りませぬ。
「彼女――クレオパトラの鼻が、今|些《すこ》し低かったならば、羅馬《ローマ》の歴史を通じて世界の歴史に変化を与えたであろう」
 という云い伝えが、もし彼女の鼻の静的表現の高さに就いてのみ解説されたものであるとするならば、どうしても鼻の表現の真相を穿《うが》ったものとは考えられませぬ。少くとも近所にスフィンクスが控えている以上、今些し意味深長な理由があるものと考えたいのであります。
 クレオパトラは美人の代名詞として今日迄も謳《うた》われている位の容色の持ち主であったそうであります。その女性としてのプライドが如何に高かったかは想像するに難くありませぬ。同時に世界文化の先進国たるエジプトの女王たるプライドが、如何に極度以上にまでその鼻の表現を高潮しおった事でありましょうか。彼女の鼻が今些し低かったならば云々という言葉は、この場合精神的方面からの批判と見るが至当ではあるまいかと考えられます。
 シーザーは、はるばる羅馬から彼女を見物に来て、この超世界的の女王の鼻の表現を見ると、そのまま黙って羅馬に帰ってしまったと伝えられております。
 傲岸不屈、世界を眼下に見るシーザーの鼻の表現が、如何なる男性をも自己の美と女王としての権威の膝下に屈服せしめなければ措かぬというクレオパトラの鼻の表現と相容れ得なかった事は、想像するに難くありませぬ。
 こうして世界の運命は、男性と女性の最高のプライドの鉢合せに依って決せられたのであります。
 これに反してアントニーは、彼女の鼻の外面的美的条件を見ただけで、これに惑溺したのだそうであります。そうして引き続いてクレオパトラに愛せられたところを見ると、アントニーの鼻の表現は余程のお人好しか好色漢の色彩を帯びたものであったろうと想像されます。
 男性の性格の両面とも云うべき「愛」と「功名」――これを代表したこの二つの鼻の表現が、彼女の鼻に対して結んだ因果関係――それに依って支配された二英雄の運命――それに依って支配された羅馬の将来――それに依って運命づけられた世界の
前へ 次へ
全39ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング