す。
 横町の黒犬と竪町の白犬とは初めて曲り角で出会うや否や、俄然《がぜん》として態度を緊張させます。ソロソロと近寄って、ウンウンと嗅ぎ合ってその同性同志である事がわかる……何等の利害関係のない赤の他犬である事が判明すると、憤然として鼻に皺を寄せます。やおら白い眼と白い牙をむいて「何だ貴様は」という表現をします。甚だしきに到っては、何等の理由なしに大怒号大叫喚の修羅の巷《ちまた》を演出したりします。
 これは畜生同志が初めて出会った時の心理状態を有りのままに見せた表現でありますが、遺憾ながら万物の霊長たる人間にも、この性質を発見する事が出来るのであります。子供ならば、学校が違ったり部落が違ったりすると、ただ訳もなく睨み合います。大人になってもこの心理作用はなかなか消え失せないので、電車の中や汽車の中、その他到る処にこの気分の発露を見受けられますようで……尤も理由なしに咬み合いは始めませんが、一寸足でも踏むか横っ腹でも突くと、何だこの野郎、失敬な奴だという気持になります。甚だしいのになると、それをきっかけに電車の二三台位は訳なく止めるような事になるので、その云い草や理屈が如何に文化的であっても、要するに野蛮時代から潜在的に遺伝して来た動物性の暴露である事は疑いを容れませぬ。
 ですから……これでは人類の共同的文化生活は永久に覚束《おぼつか》ない……とあって発明されたのが儀礼とかお世辞とかいう奴であります。さすがに吾々の祖先は万物の霊長だけあって、途中で出会うたんびに一々尻を嗅ぎまわってイガミ合っていては、手数が大変だという事を直ぐに覚ったのでありましょう。
 そこで「ウヌが人間ならオレも人間だ。向うへ行きたけりゃ手前の方からよけて通れ」という鼻の表現を和《やわ》らげて、「貴殿が紳士なら拙者もゼントルマンで御座る」「御免遊ばせ」「失礼を」で行き違います。奇特な人は他家のお葬いにでも帽子を脱ぐといった塩梅《あんばい》式になります。
 これを以てこれを見れば、礼儀作法とか御愛嬌や御挨拶なぞというものは、共同生活の本義から割り出された四海同胞主義、それからまた煎じ出された博愛の精神を標準目標として出来たものと考えられます。商売上の掛引にせよ何にせよ、相手に好感を与えねばならぬという人類共通の本心から出たものである事は間違いないようであります。
 同時に精神上から見ても物質上から云っても、世間はだんだん実質本位になって来ます。お世辞でも中味のある方がいい。礼式でも無駄なのは廃してしまえというので、精神上物質上充実されたものでなければ人が相手にしなくなるのは当り前であります。
 これが次第に拡充されて来ると、当世流行の人類愛迄漕ぎつけます。赤の他人にでも奉仕する。知らぬ人間でも尊敬をする。何人《なんびと》も欺し得ず、何ものも傷付け得ぬところまで行き付くのであります。つまり現在の人間がやっているおべっかやお追従《ついしょう》は、人間が動物から進化して純愛の一大団結たるべき下稽古――霊的文化の世界を組織すべき手習いをやっているものと見るが至当でありましょう。
 鼻の表現研究の主目標は、ここにあるのであります。
 この光明に達し得る最上の近道が、鼻の表現の研究に外ならないのであります。
「イヤアどうも。一度是非お伺いしなければならぬとはいつも考えながら、ついどうも」
 という鼻の表現の内容が如何に充実していないものであるかという事は、本人自身もよくわかっている筈であります。
「アラチョイト。旦那にはどこかでお眼にかかったようだわ。妾《わたし》こんや嬉しいわ」
 という鼻の表現が如何に三十円に値せぬかは、通人ならぬ御客様でも一眼でおわかりの事と存じます。
「お蔭様で助かります」
 という仏面《ほとけづら》と、
「抵当が欲しけりゃ持って行け」
 という閻魔面《えんまづら》とのどちらにも、横着を極めた鼻の表現が共通して存在している事は誰しも認め得るところでありましょう。
 鼻の表現はこうして常にその誠意の有無を裏書して、相手の警戒心を挑発します。「嘘から出たまこと」でも「真事《まこと》から出たウソ」でもそのままソックリ写し出して、鼻の表現の邪道の研究範囲を狭くして行きます。三千年前から聖人が心配していた世道人心が、今日迄も案外|廃《すた》れ切らないのは、偏《ひとえ》にこの鼻の表現の御蔭ではありますまいかと考えられる位であります。
 親の罪を引き受けて「私が致しました」というしおらしい孝子の鼻の表現と、自分の罪を他人になすり付けて「一向に存じませぬ」と白《しら》を切る悪党の済まし切った鼻の表現は、どうしても違わなければなりませぬ。同時にあらゆる証拠が揃っていながら「冤罪《むじつ》だな」と名奉行が心付き、又はなんの証拠もなくて反証ばかりあがっていながらテッ
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