表現も倒退三千里――七里ケッパイの外ないのであります。
記憶と鼻
――悪魔式鼻の表現(十二)
人間に記憶というものが存在する限り、如何に古い出来事でも必ずその鼻の表現に影響を与えずには措《お》かぬ。同時に人間に鼻というものが存在する限り、その誠意の有無、虚実の程度は証明されずに済まぬ。鼻の使命はそこに在るという事は、ここまで鼻の表現を研究して来られた方が信じて疑われぬところであろう事を信じて疑いませぬ。
然るに一般の人々はこんな事を夢にも気付きませぬ。すべての人は他人に見られさえしなければ、どんな悪い事をしてもわからぬものと考えておられるようであります。もっと端的に云えば、世間では腹の悪いものが勝《かち》だという意見の方が昔から勝を占めているようであります。
これは至極|尤《もっと》もな話であります。
少くとも現在の社会では心からの正直者が大抵の場合、損をしているように見えます。それと同時に現在偉くなっている人々は、大抵他人を見殺しにしたり、又は他人の精神上や物質上の損害を自分の出世の犠牲にして知らぬ顔をする事の上手な人ばかりであるように見受けられます。だから俺もそうしないと損だというように考えられているようで、男の児《こ》なぞは小説などを読み得る年頃になると、ボツボツこんな迷いを起こす。そうして三十か四十になると、吾が児の純な鼻の表現を見て、
「まだ世間知らずだなあ」
なぞと悲観するという。悪魔式鼻の表現研究者の卵は、こうして人間到る処に孵化《ふか》しつつあるのであります。
これを防止するためには「鼻の表現」の価値と権威とを宣伝するのが一番の近道であります。大きな鼻の絶頂に意志や感情を象徴した五色の旗を立てたポスターなぞは、最も眼新しくて面白かろうとさえ考えられる位であります。いずれにしてもその人間の腹の底にあるものは必ず鼻の表現に現われるのであるという事を、出来るだけ深く明らかに全世界の人類に知らせるのが何より急務であろうと考えられます。
善因善果、悪因悪果、悔い改めよの、心を入れ換えよの、やれ神罰の、仏罰の、天の怒り地の祟《たた》り、親罰、子罰、嬶罰《かかあばち》のと、四方八方からの威し文句の宣伝ビラが昔から到る処ふり撒《ま》かれておりますが、近頃の人間は頓《とん》と相手にしなくなりました。恰《あたか》も往来の塵《ちり》同様、ハイカラ風の吹き散らすに任せ、文化の雨がタタキ流すに任せております。
しかし鼻の表現ばかりはそうは行かぬ。「天に口なし、鼻を以て云わしむる」という事を覿面《てきめん》に証拠立てるものであるという事が、もし本当に人類全体にわかったらどうでしょう。今云っている言葉、今やっている表現が、本当に心から出たのであるかどうかという事を即座に判決する裁判官が、自分の顔の真中に控えているという事が真実に一般に自覚されたらどうでしょう。
「そんな事があるものか」と笑う人の鼻の表現にはきっと負け惜《おし》みの色が動いているものであるという事が判明したら、そもそもどんな事になるでありましょうか。
鼻の無い方が世間に何人おられるか存じませぬが、そんな方はお気の毒ですからここではイジメませぬ。さもない限りすべての鼻の持主は、正に人類文化の大革命、表現界の大恐慌として狼狽されるに違いありませぬ。
鼻と文化生活
――悪魔式鼻の表現(十三)
悪魔式鼻の表現の弱点をここ迄|抉《えぐ》り付けて来ますと、きっと次のように反対論者が世界中から攻撃の矢を向けるに違いありません。
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鼻の表現は人の心をアケスケに見せるという事はよくわかった。それが又人類文化向上の原動力だという理屈もよくわかった。しかしこの道理を人類全体が自覚したとしたら変な事になってしまいはしないか。
第一自分の鼻がそんな物騒なものだとわかったら、うっかり口も利けなくなる。人類文化の改良どころか社会生活の破滅になりはしないか。
たった一度しか買わぬのに「毎度有難う」と云う商売人、又かと思ういやなお客に「ホントニお久し振りね」と云う芸者、「貴国の軍備縮小に満腔の敬意を払う」と云う外交官、「とんだ御不幸で」と駈け付ける新聞記者、その他到る処の御世辞や御愛嬌は片っ端からフン詰まりになって、人間到る処、篦棒とブッキラ棒のたたき合いになってしまう。そうなれば人類文化の運の尽《つき》ではないか。これを以てこれを見れば、鼻の表現の研究宣伝は不可能である。可能であっても不賛成である。
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……と……。
……まことに事理明白な次第でありますが、幸か不幸かこの御心配は御無用である事を、横町《よこちょう》の黒犬と竪町《たてちょう》の白犬とが往来の真中で証明してくれるのでありま
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