どれ位のものであるか、同時に鼻がその人の二重三重の底意までも如何にデリケートな程度にまで写し出すものであるかという事は、今まで挙げました例証で最早《もはや》充分に御了解出来た事と思います。

     記憶と鼻
       ――悪魔式鼻の表現(八)

 更にこの鼻の表現の邪道――掴ませものの鼻の表現――悪魔式鼻の表現を根本的に裏切り得る一種の鼻の表現があります。
 それは人間の記憶に対する鼻の表現であります。
 心に暗い記憶が浮かめば、その人の鼻の表現は自然と暗くなって来るものであります。快濶な輝きが見えなくなって、しまいには黙り込んでしまうようになります。甚だしくなると眼までも閉じて、これを打ち消そうと試みる位になります。しかもそうすればする程|益《ますます》その記憶がありありとなって来る。同時に鼻の表現は益暗くなって来るのであります。
 明るい記憶が浮んだ場合は、又これと正反対の結果を鼻の表現に現わすという事は、誰しも容易に認め得る事実であります。
 鼻はその記憶の深浅、大小、濃淡から、これに対する良心の反映の明暗、厚薄まで一々残る方なく写し出すのであります。
 その結果が如何に恐るべき影響を自分以外の者に及ぼし、その影響が如何に自分に反射して来るものであるか、十目の見るところ十指の指すところ、如何に隠しても隠し切れぬものであるか、神様は見通しという因果関係が如何にして出来て来るものであるかという研究は、さらに鼻の表現に新生面を与えるものでなければなりませぬ。
 ここに男性というものがあると仮定します。
 その男性なるものは極度に婦人を侮辱し蹂躙する事を得意とする性格を持っていると仮定します。その鼻の表現が如何に記憶に支配されて相手の婦人に影響して行くか……。
 昨日は女優、今日はウエイトレス、明日《あす》は女学生、明後日《あさって》は交換嬢と、到る処に手を握り締め涙を流して、
「あなたは僕の未来の妻です」
 と身をふるわせ得る鳥打帽……。
「きっと身受けして本妻に」
 と行く先々で嬉しがらせる金鎖……。
 或いは又、吾が家の前で今一度口を拭って、
「ああくたびれた。どうも用事が長引いてね……」
 と鞄一パイのお土産を荷《かつ》ぎ込む中折れ……。こんな方々が如何に色男で才子で信用があっても、変態心理の所有者でない限りその心に残っている記憶の影を踏み消す訳に参り
前へ 次へ
全77ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング