同じ道理であります。如何なる悪魔の二重三重の底意でもさながらにその鼻に写し出されるのであります。
 更にこの事実が相手方の共鳴又は反響の程度に依ってありありと証拠立てられるに到っては、鼻の表現研究に対して無限の興味を感じないわけには参りませぬ。
「人民保護の警官が人民を斬るとはなに事ぞ」
 と大道演説壇上で男泣きに泣く人を民衆は神様として担ぎ上げます。しかしこの人のためなら生命《いのち》を捨ててもと思うものはただの一人も無いのであります。
 天下を窺う奸物の部下に就くものは、恩賞に眼がくれた欲張りか情誼《じょうぎ》にほだされた愚物か、又は奸物を承知でくっ付いた奸物かに限られているようであります。聡明|敏慧《びんけい》抜群の士でも、権謀術策を以て人を率いようとする限り、その部下に心服されないという実例は、昔から数多く伝えられているようであります。
「添われぬ位なら一層死にます」
 と親には云いながら、女には土壇場で、
「お前はおれを欺すのじゃあるまいね」
 と今一度念を押したくなるのは、その女の鼻の表現の底に横たわる冷やかな或るものに感じている証拠ではありますまいか。
 云い寄る男に心は引き付けられながら、親しい学友にそっと手紙を見せて、
「あたしどうしようかと思っているのよ」
 と相談をして見るのは、相手の言葉と鼻の表現とにそぐわないところがあるのにいつとなく感じた不安からでありましょう。
 悪魔式鼻の表現の苦手は、いつでも音《おと》なしい正直な人間か又は数等|上手《うわて》を行く明眼達識の士かであります。このような人々の無欲な静かな、そうして澄み切った眼は、悪魔式鼻の表現家の最も忌み嫌うところであります。
 うっかりするといたいけな小児たちまでも、恐るべき苦手となる事が些なくないのであります。家内眷族が尽《ことごと》く信用し切っている叔父さんや伯母さんを、お嬢さんや坊ちゃんがどういう訳だか好かない事があるのであります。
「あの人は嫌い」とか「あの人は嘘|吐《つ》き」とか、別に欺《だま》しもしないのに平気で宣告する事があります。これはその純潔な澄み切った心の鏡に、愛想のいい相手の鼻の表現の底に横たわる或るものがチラリチラリとうつるからで、いくら御機嫌を取っても誠意を示しても益《ますます》反感を買うばかりとなる事すら珍らしくないのであります。
 偽った鼻の表現の価値が
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