動き流れて行くのであります。
 しかしこれを正しい鼻の表現法から見れば、極めて浅薄な皮相的な研究法で、鼻の表現の真諦に入る階梯とはならないのであります。却《かえ》って一つの大きな邪道と見るべきものである事をここに特に力を入れて闡明《せんめい》しておきたいのであります。
 鼻の表現法の真意義の研究に入るには、先ずその邪道なるものを飽く迄も知り抜いていなければ、その真意義なるものがはっきりとわかりにくいのみならず、却ってこの邪道に陥って又と再び本通りに帰る事が出来ないようになる恐れがあるのであります。
 鼻の表現法の邪道なるものは、一度踏み込んでみると中中面白いものであります。大抵の奴はこの邪道でコロリコロリと参る……俗物は色気や欲気で誘い出し、君子はその道を以てこれを欺くといった風に、その効果が眼の前に現われます。どんな場合でもフン詰まらず、如何なる逆境でも順境に引っくり返す事が出来て、世間はどこまでも拡がって行くように見える。とうとうこれに浮されて、一生しんみりした鼻の表現の価値を認めず人間らしいつき合いの味を知らずに、しかも得々として眼をつぶる者さえ些《すく》なくないのであります。

     正表現、邪表現
       ――悪魔式鼻の表現(六)

 このような人々は悪魔に一生を捧げ尽した人と云うべきでありましょう。否、虚偽を以て真実を弄《もてあそ》びつくすのでありますから、この人等をこそ悪魔と呼ぶべきではありますまいか。何等社会に与《あず》かるところなくして、社会からあらゆるものを奪い取るからであります。
 その中《うち》でも偉い奴になると栄燿《えいよう》栄華心に任せ、権威名望意に従わざる無く、上は神仏の眼を眩《くら》まし、下は人界の純美を穢《けが》し去って、傲然として人間の愚を冷笑しつつ土の中に消え込むからであります。これを羨みこれを慕う凡俗の群は、踵《くびす》を揃えてこれに学びこれに倣って、万古に尽きせぬ濁流を人類文化の裡面に逆流させるからであります。
 それならそれでもいいじゃないかと功利派の人は云うかも知れませぬが、左様《さよう》ばかり行かぬから困るのであります。悪魔式の鼻の表現は矢張り悪魔式鼻の表現で、どうしても正しい鼻の表現とは違うのであります。如何に巧みに、如何に徹底的に装っていても、必ずはっきりと見分けのつくところがあるのであります。
 鼻の表
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