奴隷に下足を揃えて御機嫌を伺う。しかも微塵も鼻の表現をたじろがせずに常に先方に遺憾なき感動を与えるのをお茶の子仕事と心得ているのであります。
彼等は幾度か身の毛も竦立《よだ》つ浮き沈みに出合った揚句、所謂「度胸一つがすべての資本」という悟りを開いております。あらゆる失敗をやってあらん限りの恥を掻き上げた結果、羞恥心が思い切り摺り切れております。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一、すべてに対する未練、執着、気がかり、気兼ね等から超脱する事
一、すべてを冷眼視し得る度胸で本心のゆらめきを圧迫し去る事
一、如何なる俄《にわか》作りの感情、お座なりの意志、間に合わせの信念でも直《ただち》に本心一パイに充実させ得るように心掛ける事
[#ここで字下げ終わり]
といったような術を天然自然と会得しております。猫を冠《かぶ》るは愚かな事、獅子でも豚でも蛙でも蛇でも、何の皮でも自由自在に脱けかわり被《かぶ》りかわる事が出来るのであります。
こうしてその心にすこしのわだかまりも不安も無しに如何なる場面にでもしっくりと落ち着き合う事が出来るのであります。
どんな気分にでもゆったりと調和し合う事が出来るのであります。
ここに於て……
[#ここから1字下げ]
……鼻の表現はその本心や性格の色彩を現わす。故にその本心や性格を変化させ得るものは、その鼻の表現を支配する事が出来る……
[#ここで字下げ終わり]
という逆定理が完全に彼等のものとなって来るのであります。この逆定理を応用してその本心を打ち消し、その性格を隠して、鼻の表現をさながらにそれらしく変化させて行く事が出来るのであります。
この逆定理を舞台上の修業で手に入れたものは直《ただち》に名優となる事が出来るのであります。同様に実世間の舞台面で修得したものは直に悪魔式鼻の表現の大家、毒婦、色魔、悪党、横着政治家となり得るのであります。そうしてこの程度まで鼻の表現を研究し得れば、最早《もはや》所謂、機略縦横、神出鬼没の行き止まりとして世間から一種の敬意を払われるので、しかもこれを世渡りの秘訣、処生法の免許皆伝と心得ている人が又|頗《すこぶ》る多いように見受けられるのであります。
この悪魔式鼻の表現に威かされたり、感銘したり、共鳴したりする人も又頗る多いように見受けられます。そのままに世の中は滔々《とうとう》として
前へ
次へ
全77ページ中43ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング