す。
所詮、鼻は表現界中央の重鎮……表現界のドミナントであります。
偉い人はたった一人でいる時は、宿賃の工面は愚か車の後押《あとおし》も出来ません。しかるにこれにいったん有意有能な同志や乾児《こぶん》がくっつくと、無限不動の裡《うち》にその同志や乾児の総ての能力以上の価値を示す事が出来るのであります。又鼻は、顔面表現の舞台面に於ける千両役者とも見る事が出来るのであります。
……御注進御注進、一大事一大事……ナ、何事じゃ……と慌てふためく動的はした役者よりも、舞台の真中に神色自若としている千両役者の方が、はるかに深い感動を見物に与えるようなものであります。
鼻は云わずして云う者以上に云い、泣かずして泣く者以上に泣き、笑わずして笑う者以上に笑い、怒らずして怒る者以上に怒る好個の千両役者であります。
同時に鼻は、他の動的表現係がいくら騒いでいる場合でも、その騒ぎが本物でない限り一切これに関係しない。却《かえ》ってその騒ぎの裡面の真相を、不変不動の中に発表して行くという英雄的真面目さを持っているのであります。
眼が表す悲しみや怒り、口が示す喜びや悲しみ、そんな通り一遍、一目瞭然の表現は、鼻には無いと云ってもいい位であります。
鼻の表現はもっと深刻であります。
もっと真率であります。
もっとデリケートであります。
それだけに有意識的に相手に認められ難い。
それだけに無意識的に相手に深い感銘を与えるのであります。
眼や口がその人間の感情や意志を現わして相手の感情を刺激するものならば、鼻はその魂を表して相手の魂に感じさせるものであります。世に云う以心伝心という事は、鼻の存在に依ってその可能性を裏書きされると云っても決して過言ではあるまいと考えられます。
全霊の真相
――鼻の動的表現(九)
鼻はその人の全霊の真相を表明するものであります。そうして最も忠実にこの任務を果しているものであります。
ここまで研究して参りますと、鼻の静的表現なぞは全く問題でなくなって参ります。
その人の本心が喜ばない以上、鼻は決して喜びの色を見せませぬ。そうして内心不平であれば遠慮なくムッとした色を見せ、残念であれば差し構い無しに怨めしい色をほのめかしているのであります。
「妾《わたし》はもうとても皆様の御噂にかかるような顔じゃ御座いませんよ。毎日鏡
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