たという事を未だ嘗《かつ》て一度も承わった事が無いのであります。
活動やお芝居なぞを見ておりましても一層この感じを深く裏書きされるのであります。世界を挙げて人類は鼻の表現を一切打ち忘れて、鼻以外の表現法ばかりを研究しているものときめかかって差し支えないようであります。
大袈裟なところでは眉が逆立ちをしたり、眼が宙釣りになったり、口が反《そ》りくり返ったりします。デリケートなところでは唇がふるえたり、眼尻に漣《さざなみ》が流れたり、眉がそっと近寄ったりします。その他頬がふくれたり、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》がビクビクしたり、歯がガッシガッシしたりする。しまいには赤い舌までが飛び出して、上唇や下唇をなめずりまわし、又はペロリと長く垂れ下ったりします。
その上に足の踏み方、手の動かし方、肩のゆすぶり方、腰のひねり方、又はお尻の振り方なぞいう、顔面表現の動的背景ともいうべき大道具までが参加して、縦横無尽千変万化、殆ど無限ともいうべき各種の表現を行って着々と成果を挙げているのであります。
然るにその中央のお眼通り正座に控えた鼻ばかりはいつも無でいるようであります。只のっそりぼんやりとかしこまったり、胡坐《こざ》をかいたり、寝ころんだりしております。精々奮発したところで暑い時に汗をかいたり、寒い時に赤くなったりする位の静的表現しか出来ない。たまに動的表現が出来たかと思うと、それは美味《おい》しいにおいを嗅ぎ付けてヒコ付いたのであったなぞいう次第であります。どちらにしても恐ろしく低級な、殆ど無いと云ってもいい位な表現力しか持たぬものとして、人類の大部分に諦められているようであります。
その中《うち》でもこの鼻の表現力に対する女性たちの諦め方は、特にお気の毒とも何とも申し上げようが無い位であります。
容色の美醜は特に鼻の静的表現、即ち鼻の恰好に依って大変な違いが出来て来ますので、鼻に動的の表現が無い限りどうにも誤魔化しようが無いのであります。然るに天はなかなかこの鼻を思う通りの美的条件に合わせて生み付けてくれませぬので、たった鼻一つで売れ口の遅れるような実例が方々に出来て来るのであります。このような女性は毎日鏡を見るたんびに、遺伝という学問を編み出した学者を呪ったり、自分の鼻に似た恰好の鼻を持っている肉親の方を怨んだりしておられます。又は白粉
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