穴が正面から底まで見えたり、下司《げす》張った奴の鼻の恰好が芝居の殿様のようであったりするといったような実例はザラにあります。「人は見かけに依らぬもの」という格言が鼻にも通用するものであるならば、この格言の出来た理由の一つにこんな実例も加えて決して差し支《つか》えあるまいと思われる程、左様に多いのであります。
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その人の先天的もしくは後天的の性格と鼻の恰好との間にはこれと云って取り立てる程の関係はない。
鼻の恰好から来る感じをその人の性格その他の表現と見るのは間違いと断定して大過は無い。
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こうした判断のしかたは非常な危険を伴うものである。
という事はここまで研究して参りますと一目瞭然するのであります。
鼻と諦め
――鼻の静的表現(三)
以上は人体に於ける鼻の位置、高低、恰好等から見た鼻の表現の研究でありますが、この種の表現は元来固定的|且《か》つ先天的なもので、人間の力で変化させる事は先ず出来ないものとなっております。蓮切鼻の人は死ぬまで蓮切鼻でいる。希臘《ギリシャ》型のを授かった人は睡《ねむ》っている間も希臘型というのが原則として認められております。
そのために又ここに一つの鼻の表現に対して大きな誤解を持っている人が頗《すこぶ》る多い事になって来ております。
即ち鼻は絶対に静的なもので、眼や口なぞのように動的な表現力は全然持っていない。耳と同様に一種の飾りに過ぎぬものと昔から認められている事であります。逆に云えば、人間の意志や感情又は性格なぞいうものは何の影響をも鼻に与え得ないという事になります。
これは一般の人々ばかりではありませぬ。かなり進んだ頭を持った芸術家でも同様であります。芝居のお化粧なぞを見ましても鼻の動的表現の方は初めから問題にしないで、只鼻の恰好に現われる感じばかりを活《い》かすべく苦心されてあるように見えます。
喜怒色に現わさずという事をすべての修養の根本、社交の第一義とまでに尊重して来た東洋の人々を相手とする芸術家の間に「鼻の動的表現」が問題とならぬのは、無理からぬと云えば云えぬ理由もあります。しかしこれと反対に表情を極度に誇張しようと努めている西洋の芸術家や婦人達の間にも「鼻の動的表現」、言葉を換えて云えば「鼻の表情」とでもいうべきものが独立して研究され
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