す。しかも普通の場合に於ては、わざとそういう気前を見せて、せめて相手の深い感謝の念だけでもつなぎ止めようという、一種の未練や負け惜しみから来ております。又は周囲に対するテレ隠しや、相手に対する面当《つらあて》などの意味も含まれていない事は無いと考えられます。些《すくな》くともこの言葉が第一義式性愛から出たものでない事は、こうした種類の黒焼の元祖、大星由良之助氏も承知の前であったであろう事を疑い得ないのであります。
要するにこの種の男性は、自分の第二義第三義以下の性愛を以てしても、相手の女性に求むるところのものは、常にその第一義の性愛であります。そのためには自分の愛が、第一義もしくはそれ以上に高潮したものである事を、相手の女性のそれぞれに対してふんだんに示さなければなりませぬ。男性の本心はそこに大きな空虚を感じない訳には行かないのであります。
この空虚が鼻の表現に顕われて、その実意のある無しを証明するのであります。
仮令《たとえ》その相手が貞操の切り売りをする女性であっても、多少に拘らず本心に眼ざめる力を持っている限り、又は世間というものに対して幾分でも眼醒め得る理智的の力を持っている限り、この種の鼻の表現に対する感得力は持っているものであります。仮令それが惚れたはれたの真只中《まっただなか》、浮いた浮いたの真最中でも、相手の女性はこの感得力だけは別にチャンと取っておいて、暗黙の裡に男性の心理状態を研究し続けているものであります。
殊にこの傾向は、意地で世間を振り切ったというような、一種緊張した境地を歩む女性、又は男に飽き果てたという極度の濁りから出た、一種の澄み切った気分を楽しむ婦人、或《あるい》は又全く何にも知らぬポッとした女性に最も甚だしいのであります。こんなのになると金にあかし、望みに明かしてもうんと云わない。「殺す」と威《おど》しても、勝手にしろと鼻であしらうようなのすら見受けられるのであります。
ここまで来ると鼻の表現の価値の神聖無上さは実に天地の富にも換え難い位で、女性は只男性の鼻の表現のために生きていると云っても差支えないのであります。
「何の二千石君と寝よ」という凄いのが出て来るのもこの理由からであります。
「身体《からだ》は売っても心は売らぬ」という篦棒《べらぼう》なのが出て来るのもこの意義からであります。
ここに到っては如何なる悪魔式
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