であったろう。
もとより生一本の能楽気質の翁が、こうした能静氏の風格を稟《う》け継いだ事は云う迄もない。
翁は九州に帰って後、そうした惨澹たる世相の中に毅然として能楽の研鑽と子弟の薫育を廃しなかった。野中到氏(翁の愛娘千代子さんの夫君で、後に富士山頂に測候所を建て有名になった人)と、翁の縁家荒巻家からの扶助によって衣食していたとはいえ全く米塩をかえりみず。謝礼の多寡《たか》を問わず献身的に斯道の宣揚のために精進した。
七八つの子供から六十歳以上の老人に到るまで苟《いやしく》も翁の門を潜るものは一日も休む事なく心血を傾けて指導した。その教授法の厳格にして周到な事、格を守って寸毫も忽《ゆるがせ》にしなかった事、今思っても襟を正さざるを得ないものがある。(後出逸話参照)
さもしい話ではあるが、そうした熱心な教育を受けた弟子が、謝礼として翁に捧ぐるものは盆と節季に砂糖一斤、干鰒《ほしふく》一把程度の品物であったが、それでも翁は一々額に高く押戴いて、「はああ……これはこれは……御念の入りまして……」
と眼をしばたたきつつ頭を下げたものであった。無慾篤実の人でなければ出来る事でない。
そればかりでない。
翁は市内|櫛田《くしだ》神社(素戔男尊《すさのおのみこと》、奇稲田姫《くしなだひめ》を祭る)、光雲《てるも》神社(藩祖両公を祀る)、その他の神事能を、衷心から吾事として主宰し、囃子方、狂言方、その他の稽古に到るまで一切を指導準備し、病を押し、老衰を意とせず斎戒沐浴し、衣服を改めて、真に武士の戦場に出づる意気組を以て当日に臨んだ。これは普通人ならば正に酔狂の沙汰と見られるところであったろうが、これを本分と覚悟している翁の態度は誰一人として怪しむ者もなく、当然の事として見慣れていたくらい真剣に恪勤《かっきん》したものであった。
これも逸話に属する話かも知れぬが、当時の出演者はシテ方、ワキ方は勿論、囃子方といわず狂言方といわず、見物人の批評を恐るる者は一人も居なかった。ただ楽屋に控えている翁の耳と眼ばかりを恐れて戦々兢々《せんせんきょうきょう》として一番一曲をつとめ終り、翁の前に礼拝してタッタ一言「おお御苦労……」の挨拶を聞くまでは、殆んど生きた心地もなかったと云っても甚だしい誇張ではなかった。その当時十二三か四五程度の子供であった筆者でさえも大人の真似をして翁の顔色ばかり心配していたものであった。
かようにして毅然たる翁の精進によってこの九州の一角福岡地方だけは昔に変らぬ厳正な能楽神祭が継続された。囃子方、狂言方は勿論の事、他流……主として観世流の人々までも翁の風格に感化されて、真剣の努力を以て能楽にいそしんだ形跡がある。甚だしきに到っては元来|上懸《かみがかり》の発声と仮名扱いを以て謡うべき観世流の人々までが、滔々《とうとう》として翁一流の下懸《しもがかり》式|呂張《りょはり》を根柢とした豪壮一本調子な喜多流|擬《まが》いの節調を学び初め、観世流の美点を没却した憾《うらみ》があった。
かような翁の無敵の感化力が如何に徹底したものであったかは、後年観世流を学んでいた吉村稱氏が翁の歿後一度上京して帰来するや、
「福岡の観世流は間違っている。皆只圓先生の真似をして喜多流の節《ふし》を謡っている。観世流は上懸で声の出所が違うのだから節も違わなければならぬ」
と大声疾呼して大いに上懸式の謡い方を鼓吹した一事を以てしても十分に察せられるであろう。
日本の辺鄙《へんぴ》福岡地方の能楽を率いて洋風滔々の激流に対抗し、毅然としてこの国粋芸術を恪守《かくしゅ》し、敬神|敦厚《とんこう》の美風を支持したのは翁一人の功績であった。翁は福岡の誇りとするに足る隠れたる偉人高士であったと断言しても、決して過当でない事が、茲《ここ》に於て首肯されるであろう。
同時にその間に於て翁が如何に酬いられぬ努力を竭《つく》し、人知れぬ精魂を空費して来たか。国粋中の国粋たる能楽の神髄を体得してこれを人格化し凜々《りんりん》たる余徳を今日に伝えて来たか。その渾然たる高風の如何に凡を超え聖を越えていたかを察する事が出来るであろう。
明治二十五年(翁七十六歳)九月、先師喜多能静氏の年回(二十五回忌)として追善能が東都に於て催さるる事となった。
当時東京では喜多流皆伝の藤堂伯その他の斡旋により、現十四世喜多流家元六平太氏、当時幼名千代造氏が能静氏の血縁に当る故を以て弱冠ながら家元の地位に据わり、異常の天分を抽《ぬき》んで、藤堂伯その他の故老に就てお稽古に励んでいた。しかも前記の通り家元として伝えられた能楽の用具は僅かに張扇一対という、全然、空無廃絶に等しい状態から喜多流今日の基礎を築くべく精進し初めている時代であった。
ところで、その能静氏の追善能に就いては只圓翁にも上京してくれるように喜多宗家から度々掛合って来たので、翁は無上の名誉として上京したが、早速藩公長知公の御機嫌を伺い、喜多家へも伺ったところ、その後、千代造氏(六平太氏幼名)と、翁と同行にて霞が関へ出頭せよという藩公からの御沙汰があった。
ところが出仕してみると華族池田茂政、前田|利鬯《としか》、皇太后宮亮林直康氏等が来て居られて、色々とお話の末、池田、前田両氏が親しく翁を召されて、「新家元、千代造の輔導の大役を引受けてくれぬか」という懇《ねんごろ》な御言葉であった。
その当時の前後の状況は筆者は詳しく知らないが、いずれにしてもこの依頼が翁にとって非常な重責であったことは云う迄もない。
しかしこの時の翁の立場から見ると、徒《いたず》らな俗情的な挨拶や謙遜を以て己を飾るべき場合でなかったようである。翁も亦、能静氏の恩命を思い、流儀の大事を思い、翁の本分を省み、且つ、依頼者の知遇を思えば、引くに引かれぬ場合と思ったのであろう。
「重々|難有《ありがたき》御言葉。何分老年と申し覚束《おぼつか》なき事に存候《ぞんじそうろう》。しかし御方様よりの仰せに付、畏《かしこ》まり奉る。まことに身に余る面目。老体を顧ず滞京、千代造稽古の儀|御請《おうけ》申上《もうしあげ》候」
と翁の手記に在る。
同年一月十九日、芝能楽堂で亡能静師の追善能があった。翁も能一番(当麻《たえま》?)をつとめた筈であるが、その当時の記録は今、喜多宗家に伝わっている事と思う。
その後、毎日もしくは隔日に翁は飯田町家元稽古場に出て千代造氏に師伝を伝え、又所々の能、囃子に出席する事一年余、明治二十六年十一月に帰県したが、何をいうにも、流儀の一大事、翁の一生の名誉あるお稽古とてこの間の丹精は非常なものがあったらしい。もっとも現六平太氏が、千代造時代に師事した人々は只圓翁一人ではなかった。又熊本の友枝三郎翁も、千代造氏輔導役の相談を受けたのを、平に謝絶して只圓翁に譲ったという佳話も残っている。又只圓翁以外の千代造氏の輔導役は幼少の千代造氏を遇する事普通の弟子の如く、嵩《かさ》にかかった手厳しい薫育を加えたものであるが、これに反して只圓翁は極めて叮嚀懇切なものがあった。何事を相伝するにも平たく、物静かに包み惜しむところがなかったので、却《かえ》って得るところが些《すく》ないのを怨んだという佳話が残っているそうであるが、その辺にも礼節格式を重んずる翁一流の謙虚な用意が窺われて云い知れぬ床しさが偲《しの》ばれるようである。因《ちなみ》にこの時の只圓翁の上京問題に就ては当時在京の内田寛氏(信也氏父君)、米田與七郎氏(米田主猟頭令兄)が蔭ながら非常な尽力をされたそうである。
尚この時に翁は能楽|装束附《しょうぞくづけ》の大家斎藤五郎蔵氏に就いて装束|附方《つけかた》を伝習した。尤《もっと》も斎藤氏は初め翁を田舎の貧弱な老骨能楽師と思ったらしく中々伝習を承知しなかったそうであるが、現家元その他の熱心な尽力によってやっと承知した。現家元厳君、故宇都鶴五郎氏(能静氏愛婿)は屡々《しばしば》只圓翁の装束附お稽古のために呼出されてお人形に使われたという。
その時代の事に就いて六平太氏は筆者にもこんな追懐談をした。前記の只圓翁の心用意を裏書きするに足るであろう。
「只圓は私を教えてくれた他の故老たちと違って、傲《おご》った意地の悪いところが些《すこ》しもなく、極めて叮嚀懇切に稽古をしてくれましたよ。不審な点なぞも勿体ぶらずにスラスラと滞りなく説明してくれました」
なお六平太氏は只圓翁について語る。
「色々思い出す事も多いですが、只圓は字が上手でしたからね。私から頼んで家元に在る装束の畳紙《たたみがみ》に装束の名前を書いてもらいました。只圓は装束の僅少な田舎にいたものですから大した骨折ではないとタカを括《くく》って引受けたらしいのです。ところが、口広いお話ですが家元の装束と申しましても中々大層なものでね。先ず唐織から書き初めてもらいましたのを、只圓は何の五六枚と思って墨を磨っていたのがアトからアトから際限もなく出て来る。何十枚となく抱え出されるので余程驚いたらしいですね。閉口しながらウンウン云って書いておりましたっけ」
「酒は好きだったらしいですね。私は七五三に飲みますと云っておりました。多分朝が三杯で昼が五杯で晩が七杯だったのでしょう。小さな猪口《ちょこ》でチビチビやるのですからタカは知れておりますが、それでも飲まないと工合が悪かったのでしょう。『今日は朝が早う御座いましたので三杯をやらずに家を出まして、途中で一杯引っかけて参りました。申訳ありませぬ』と真赤な顔をしてあやまりあやまり稽古をしてくれる事もありました」
「面白いのは梅干の種子《たね》を大切にする事で(註曰。翁は菅公崇拝者)、一々紙に包んで袂《たもと》に入れておりました。或る時私が只圓の着物を畳んでいる時に偶然にそれが出て来ましたのでね。開いてみると梅干の種子《たね》なので何気なく庭先へポイと棄てたら只圓が恐ろしく立腹しましたよ。『勿体ない事をする』というのでね。恐ろしい顔をして見せました。後にも先にも私が只圓から叱られたのはこの時だけでしたよ」
云々……と。師弟の順逆。老幼の間の情愛礼譲の美しさ。聞くだに涙ぐましいものがある。
かくて新家元へ相伝の大任を終った翁が、藩公長知侯にお暇乞《いとまご》いに伺ったところ、御|垢付《あかつき》の御召物を頂戴したという。
因に翁のこの時の帰郷の際には、藤堂伯、前田子、林皇后太夫、その他数氏の懇篤なる引留め運動があったらしいが、翁は国許の門弟を見棄てるに忍びないからという理由で聊《いささ》か無理をして帰ったらしい。しかもその以前から内々で引続いていた野中、荒巻両家からの只圓翁に対する扶助はこの以後も継続されたので、国許の門弟諸氏はその意味に於て荒巻、野中両家に対し感謝すべき理由がある事をここに書添えておく。
明治三十三年の春頃であったか、福岡名産、平助筆の本舗として有名な富豪、故河原田平助翁の還暦の祝賀能が二日間博多の氏神櫛田神社で催された。番組は記憶しないが、京都から金剛謹之介氏が下って来て、その門下の「土蜘《つちぐも》」、謹之介氏の「松風」「望月」なぞが出た。筆者はその時十二歳で「土蜘」のツレ胡蝶をつとめた。
その謹之介氏の「松風」の時、翁は自身に地頭《じがしら》をつとめたが中の舞後の大ノリ地で「須磨の浦半の松のゆき平」の「松」の一句を翁は小乗《このり》に謡った。これは申合わせの時にもなかったので皆驚いたらしかったが、何事もなく済んでから、シテの謹之介氏は床几を下って、「松の行平《ゆきひら》はまことに有難う御座いました」と翁に会釈したという。
明治三十七年十月八日九日両日、門弟中からの発起で翁の八十八歳の祝賀があった。能は両日催されたが、翁の真筆の賀祝の短冊、土器《かわらけ》、斗掻《とかき》、餅を合せて二百組ほど諸方に送った。
二日の能が済んだ後、稽古所で祝宴があった。能の祝宴も皆弟子中の持寄りで、極めて質素な平民的なものであった。
明治二十五年四月一日二日の両日、太宰府天満宮で菅公一千年遠忌大祭の神事能が催さ
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