らしく、今の梅若家の祖先であるという。なお詳細は不明であるけれども、平安朝時代にその梅津家の一人が九州筑後高良山玉垂神社所属の田楽法師《でんがくほうし》として下向し、久留米市の南方一里ばかりの所に現存する朝日村を所領として家業を伝えた。(坂元雪鳥、山崎楽堂両氏談)今でもその朝日村に梅津家の墓石が現存しているという。
 もちろんその当初には、まだ能楽なるものが発生していなかったのだから、いずれ田楽、もしくは里神楽《さとかぐら》類似の神事舞曲の司となっていたもので、後に能楽が流行して来るにつれて、自から転向して家業とし、祭事能を司って来たものであろうと考えられる。その喜多流を酌《く》んだ由来も、もとより詳《つまびらか》でないが、元亀天正の乱世に、肥前に似我という忠勇無双の士が居た。太鼓に堪能で喜多流の大家であったというような話を筆者が幼少の時代に祖父から聞き伝えているところから考えると、喜多流なる流派の存在は現在伝うるところよりもズット古く戦国時代から既に存在していて、九州地方にも流行していた。従って梅津家も、その流を酌んでいたものではないかとも考えられるようであるが、しかし、これは単なる
前へ 次へ
全142ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング