吾々子供連は、よくその真似をしていたものであるが、その中でも一番上手なのは故大野徳太郎君であった。

          ◇

 毎朝翁は、暗いうちに起きて自分の稽古をする。それから利彦氏を起して稽古をつける。冬でも朝食前に一汗かかぬと気持ちが悪かったらしい。これは翁の長寿に余程影響した事と思う。

          ◇

 食事は三度三度|粥食《かゆしょく》であった。
「年を老《と》ると身体《からだ》を枯らさぬといかん」
 とよく門弟の老人たちに云い聞かせたそうである。

          ◇

 筆者が十四五歳の頃であったか。
 ある春の麗《うら》らかな日曜日の朝お稽古に行ったら、稽古が済んでから翁は筆者を机の前に招き寄せて云った。
「まことに御苦労じゃが、あんた筥崎《はこざき》までお使いに行ってやんなさらんか」
 門下生は翁の御用をつとめるのを無上の名誉と心得ていたので、筆者は何の用事やらわからないままに喜んで、
「行って来まっしょう」
 と請合った。むろん翁も喜んだらしい。ニコニコしてもっとこっちに寄れと云う。その通りにすると今度は両手を突いて頭を下げよと云うので、又その通りにすると翁は自筆の短冊を二枚美濃紙に包んで紙縒《こより》で縛ったものを筆者の襟元から襦袢《じゅばん》と着物の間へ押し込んだ。
「それを持って筥崎宮の二番目の中の鳥居の傍《そば》に在る何某(失名)という茶屋に行って、そこに居る禿頭《はげあたま》の瘠せこけた婆さんへ、その短冊を渡してオオダイを下さいと云いなさい。オオダイ……わかるかの」
「オオダイ」
「そうそう。オオダイ。それを貰うたなら落さんように持って帰って来なさい」
「オーダイ」
「そうそう。オオダイじゃ。雷除けになるものじゃ。わかったかの」
 筆者は何となくアラビアン・ナイトの中の人間になったような気持で田圃通りに筥崎へ向った。オオダイとは、どんな品物だろうと色々に想像しながら……。
 中庄から筥崎までタップリ一里ぐらいはあったろう。途中の田圃には菜種の花が一面に咲いていた。涯てしもなく見晴らされる平野の家々に桃や桜がチラホラして、雲雀《ひばり》があとからあとから上った。
 瓦町の入口で七輪を造る土捏《つちこ》ねを長い事見ていた。櫛田神社の境内では大道《だいどう》手品に人だかりがしていた。
 筥崎松原にはまだ大学校が無かった。小鳥が松の梢一パイに群れていたり、鼬《いたち》が道を横切ったりした。少々淋しくて気味が悪かった。
 こうしてずいぶん道草を喰いながら筥崎に着くと、中の鳥居の横の茶屋は一軒しかなかったので直ぐにわかった。
 中に這入《はい》ると三十四五の女房と、蟇《がま》みたような顔をした歯の無い婆さんが出て来た。いやに眼のギョロリした婆さんであったが、先に出て来て筆者を見上げ見下すと、
「あんたは何しに来なさったな」
 と詰問した。なるほど頭がテカテカに禿《はげ》ている。着物のお蔭でやっと爺さんに見えないような婆さんである。
 筆者は長い道中の間に用向きをハタと忘れているのに気が付いた。背中に短冊が這入っている事なんか恐らく翁の門を出た時から忘れていたろう。どうして何のために来たかイクラ考えてもわからないので泣出したくなった。
 頭の禿げた婆さんは口をモグモグさせながら、怖い眼付で筆者を今一度見上げ見下した。
「どこから来なさったな」
「梅津の先生のお使いで来ました。あの……あの……」
 今度は貰いに来た品物の名前を忘れている事に気が付いた。
 婆さんは歯の無い口を一パイに開いて笑った。
「アッハッハッハッ。オオダイじゃろう」
「はい。オオダイ」
「ふうん。そんならそこへ手を突いてみなさい」
 筆者は上り框へ両手を支《つ》いた。
「頭を下げなさい。そうそう」
 婆さんは痩せ枯れた冷たい手で筆者の背中を探りまわして短冊を引っぱり出した。押頂いて、眼鏡もかけずにスラスラと読んでから又押頂いた。
 それから奥へ這入って神棚の上から一本の薪の半分ばかりの燃えさしを大切そうに持って来て、勿体らしく白紙で包んで、紙縒で結わえながら筆者の懐中に押込んでくれた。
「よう来なさった。これを上げます」
 と云って女房の持って来た駄菓子の紙包みを筆者の手に持たした。筆者は懐中から薪の燃えさしを今一度引っぱり出して見まわした。恐らく妙な顔をしていた事と思う。
「これがオオダイだすな」
 婆さんがうなずいた。
「うんうん。それはなあ。この筥崎様で毎年旧の節分の晩になあ。大|松明《たいまつ》を燃やさっしゃる。その燃え残りを頂くとたい。……これから夏になると雷神《かみなり》が鳴ります。その時にこれを火鉢に燻《くす》べると雷神《かみなり》様が落ちさっしゃれんちうてなあ……梅津の爺さんは身体《からだ》ばっかり大きいヘ
前へ 次へ
全36ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング