拝熱から眼ざめつつ在る。国粋万能を叫ぶ声が津々浦々に満ち満ちて、今まで棄ててかえり見られなかった郷土の産物、芸術が、国粋の至宝として再認識され、珍重され初めつつ在る。能楽の如きも老人の閑技、骨董芸術として、忘却されていたものが、明治の末年頃から西洋人の注意を惹《ひ》いて以来、日本の識者間に再認識され、騒がれ初めた。そうして現在の民族芸術尊重熱の炎波に乗って唯一無上の国粋芸術として一般の知識階級、学生層に洪水の如く普及しつつある。
 梅津只圓翁はこの時代を見ずして世を去った。しかも維新後、能楽没落のただ中に黙々として斯道《しどう》の研鑽《けんさん》を怠らなかった。東都の能楽師等が時勢の非なるを覚《さと》って、装束を売り、能面を売って手内職や薄給取りに転向している際にも翁は頑として能楽の守護神の如く子弟を鞭撻し続けていた。
 明治の後年になって東都の能楽師がボツボツ喰えるようになって互いに門戸を張り合って来た時、翁の如き一代の巨匠が中央に乗出していたならば、当時の能界の巨星と相並んで声威を天下に張る事が容易であったかも知れぬ。しかも翁はそのような栄達、名聞《みょうもん》を求めず。一意、旧藩主の恩顧と、永年奉仕して来た福岡市内各社の祭事能に関する責務を忘れず、一身を奉じつくして世を終った。
 風雲に際会して一時の功名を遂げるのは比較的容易であると聞く。権を負い、才力を恃《たの》んで天下に呼号するのは英雄豪傑の会心事でなければならぬ。
 しかし純忠の志を地下に竭《つく》し、純誠の情涙を塵芥裡に埋めて、軽棄されたる国粋の芸道に精進し、無用の努力として世人に忘却されつつ、満足して世を去るという事は普通の日本人……世間並の国粋流者の能《よ》くするところでない。
 旧藩以来福岡市内|薬院《やくいん》に居住し、医業を以て聞こえている前医師会理事故権藤寿三郎氏(現病院長健児氏令兄)は梅津只圓翁の係医として翁の臨終まで診察した人であるが、嘗《かつ》て筆者にかく語った。
「私は謡曲とか能楽とかいうものは些《すこ》しも解からず、又面白いとも思わない。しかし医師として梅津只圓翁の高齢と元気とには全く敬服していた。私は翁を健康な高齢者の標本として研究していたので、爾後《じご》幾多の老人の診察に際して非常な参考となった事を感謝している。晩年といっても翁が九十二歳、明治四十一年から三年間病臥して居られたが、それといっても決して病気ではない。ただ樹木の枯れるように手足が不叶いになられただけで、健康には申分なく、そのまま枯れ果てて三年後の夏の何日であったかに、眠るが如く世を去られたまでの事であった。
 その亡くなられた当日の朝の事であった。
 門下の中でも一番の故老らしい品のいい二人の老人が、無論お名前なぞ忘れてしまったが、わざわざ私に面会に来られて翁の容態を色々尋ねられた後、実は老先生が亡くなられる前に聞いておきたい謡曲の秘事が唯一つ在る。それをお尋ねせずに老先生に亡くなられては甚だ残念であるが、その事を老先生にお尋ねする事を主治医の貴下にお許しを受けに伺った次第ですが……というナカナカ叮重《ていちょう》なお話であった。
 これには私も当惑した。むろん梅津先生は御重態どころではない。その前日の急変以来眼も、耳も、意識も全く混濁しているとしか思えないので、単に呼吸して居られる。脈が微《かすか》に手に触れるというだけの御容態である。御家族の方や私が御気分をお尋ねしても御返事をなさらない事が数日に及んでいる折柄で、面会などは主治医として当然、お断り申上げなければならない場合であったが、しかし又一方から考えてみると、その時は、その面会謝絶すらも無用と思わるる絶望状態で、何を申上げてもお耳に入る筈はない。御臨終の妨げになる心配はないと考えたから、折角《せっかく》の御希望をお止めするのは却《かえ》って心ない業ではあるまいかと気が付いて……それならば折角のお話ですから私が立会いの上でお尋ね下さい……と御返辞した。
 二人の老人は非常に喜ばれた。即刻、私と同伴して、程近い中庄《なかしょう》の老先生の枕頭に来られて、出来るだけ大きな声で、私にはチンプンカンプンわからない謡曲の秘伝らしい事を繰返し繰返し質問されたが、私の推察通り意識不明の御容態の事とて、老先生が御返事をなさる筈がない。短い息の下にスヤスヤと眠って居られるばかりである。
 二人の老人は暗然として顔を見合わせた。仕方なしに今度は御臨終に近い老先生の枕元で本を開いて、二人の御老人が同吟に謡い出した。
 それが何の曲であったか、もとより私の記憶に残っていよう筈もないが、たしか開かれた一枚の真中あたりまで謡って来られたと思ううちに老先生の呼吸が少し静かになって来た。そうして間もなく私が執っていた触れるか触れないか程度の脈搏が
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