は只圓翁にも上京してくれるように喜多宗家から度々掛合って来たので、翁は無上の名誉として上京したが、早速藩公長知公の御機嫌を伺い、喜多家へも伺ったところ、その後、千代造氏(六平太氏幼名)と、翁と同行にて霞が関へ出頭せよという藩公からの御沙汰があった。
ところが出仕してみると華族池田茂政、前田|利鬯《としか》、皇太后宮亮林直康氏等が来て居られて、色々とお話の末、池田、前田両氏が親しく翁を召されて、「新家元、千代造の輔導の大役を引受けてくれぬか」という懇《ねんごろ》な御言葉であった。
その当時の前後の状況は筆者は詳しく知らないが、いずれにしてもこの依頼が翁にとって非常な重責であったことは云う迄もない。
しかしこの時の翁の立場から見ると、徒《いたず》らな俗情的な挨拶や謙遜を以て己を飾るべき場合でなかったようである。翁も亦、能静氏の恩命を思い、流儀の大事を思い、翁の本分を省み、且つ、依頼者の知遇を思えば、引くに引かれぬ場合と思ったのであろう。
「重々|難有《ありがたき》御言葉。何分老年と申し覚束《おぼつか》なき事に存候《ぞんじそうろう》。しかし御方様よりの仰せに付、畏《かしこ》まり奉る。まことに身に余る面目。老体を顧ず滞京、千代造稽古の儀|御請《おうけ》申上《もうしあげ》候」
と翁の手記に在る。
同年一月十九日、芝能楽堂で亡能静師の追善能があった。翁も能一番(当麻《たえま》?)をつとめた筈であるが、その当時の記録は今、喜多宗家に伝わっている事と思う。
その後、毎日もしくは隔日に翁は飯田町家元稽古場に出て千代造氏に師伝を伝え、又所々の能、囃子に出席する事一年余、明治二十六年十一月に帰県したが、何をいうにも、流儀の一大事、翁の一生の名誉あるお稽古とてこの間の丹精は非常なものがあったらしい。もっとも現六平太氏が、千代造時代に師事した人々は只圓翁一人ではなかった。又熊本の友枝三郎翁も、千代造氏輔導役の相談を受けたのを、平に謝絶して只圓翁に譲ったという佳話も残っている。又只圓翁以外の千代造氏の輔導役は幼少の千代造氏を遇する事普通の弟子の如く、嵩《かさ》にかかった手厳しい薫育を加えたものであるが、これに反して只圓翁は極めて叮嚀懇切なものがあった。何事を相伝するにも平たく、物静かに包み惜しむところがなかったので、却《かえ》って得るところが些《すく》ないのを怨んだという佳話が残っ
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