色ばかり心配していたものであった。

 かようにして毅然たる翁の精進によってこの九州の一角福岡地方だけは昔に変らぬ厳正な能楽神祭が継続された。囃子方、狂言方は勿論の事、他流……主として観世流の人々までも翁の風格に感化されて、真剣の努力を以て能楽にいそしんだ形跡がある。甚だしきに到っては元来|上懸《かみがかり》の発声と仮名扱いを以て謡うべき観世流の人々までが、滔々《とうとう》として翁一流の下懸《しもがかり》式|呂張《りょはり》を根柢とした豪壮一本調子な喜多流|擬《まが》いの節調を学び初め、観世流の美点を没却した憾《うらみ》があった。
 かような翁の無敵の感化力が如何に徹底したものであったかは、後年観世流を学んでいた吉村稱氏が翁の歿後一度上京して帰来するや、
「福岡の観世流は間違っている。皆只圓先生の真似をして喜多流の節《ふし》を謡っている。観世流は上懸で声の出所が違うのだから節も違わなければならぬ」
 と大声疾呼して大いに上懸式の謡い方を鼓吹した一事を以てしても十分に察せられるであろう。
 日本の辺鄙《へんぴ》福岡地方の能楽を率いて洋風滔々の激流に対抗し、毅然としてこの国粋芸術を恪守《かくしゅ》し、敬神|敦厚《とんこう》の美風を支持したのは翁一人の功績であった。翁は福岡の誇りとするに足る隠れたる偉人高士であったと断言しても、決して過当でない事が、茲《ここ》に於て首肯されるであろう。
 同時にその間に於て翁が如何に酬いられぬ努力を竭《つく》し、人知れぬ精魂を空費して来たか。国粋中の国粋たる能楽の神髄を体得してこれを人格化し凜々《りんりん》たる余徳を今日に伝えて来たか。その渾然たる高風の如何に凡を超え聖を越えていたかを察する事が出来るであろう。
 明治二十五年(翁七十六歳)九月、先師喜多能静氏の年回(二十五回忌)として追善能が東都に於て催さるる事となった。
 当時東京では喜多流皆伝の藤堂伯その他の斡旋により、現十四世喜多流家元六平太氏、当時幼名千代造氏が能静氏の血縁に当る故を以て弱冠ながら家元の地位に据わり、異常の天分を抽《ぬき》んで、藤堂伯その他の故老に就てお稽古に励んでいた。しかも前記の通り家元として伝えられた能楽の用具は僅かに張扇一対という、全然、空無廃絶に等しい状態から喜多流今日の基礎を築くべく精進し初めている時代であった。
 ところで、その能静氏の追善能に就いて
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