束預かりを仰付《おおせつけ》られた。これは藩の能楽家柄として最高無上の名誉であると同時に、藩内の各流各種の催能はすべて翁の支配下に属しなければならぬという大責任が、それから後翁の双肩に落下した訳である。
 かくしてこの神曲「翁」披露能後に認められた翁の人格と芸能の卓抜さがその後引続いて如何に名誉ある活躍を示したか……そうしてその間に於ける翁の精進が如何に不退転なもので在ったかは、後掲の記録を一見しただけでも一目瞭然であろう。
 不幸にしてその頃は封建時代で、その時代特有の窮屈な規範に縛られ易い能楽の事とて、翁の声価も極めて小範囲に限って認められていた憾《うら》みがある。前にも述べた通り万一これが、ほかの大衆的な芸術で、封建の障壁が取払われている現代であったならば、芸術界に於ける翁の威望はどの範囲にまで及んでいたであろうか。
 嘉永七年(安政元年利春三十八歳)三月。福岡市天神町水鏡天満宮二百五十年御神祭につき、表舞台(今の城内練兵場、旧射的場附近御下屋敷所在)で三日とも翁附の大能を拝命した。殊に藩公の御所望で、物習能《ものならいのう》(普通の能ではない、達人でなければ舞えない秘伝の曲目)を仰付られた。右つとめ終って後、御目録を頂戴し荒巻軍治氏(翁の令弟)に祝言を仰付られた。
 又文久元年九月(利春四十五歳)、宰相公(長知《ながとも》)御昇進御祝につき、表舞台で同二十八日より三日共翁附の御能を仰付られた。
 同じく文久元年十月十五日に藩公から翁に御用召があったので、何事かと思って御館へ罷出《まかりで》たところ御月番家老黒田大和殿から御褒美があった。すなわち「利春事、家業の心掛よろしく、別して芸道丈夫である。のみならず平日の心得方よろしく暮し向万事質素で、門弟の引立方等が深切に行届いている段が藩公の御耳に達し、奇特に思召《おぼしめ》され、御目録の通り下し賜わり、弥々《いよいよ》出精せよという有難きお言葉である」という御沙汰であった。且つ、「格別の御詮議を以て御納戸組《おなんどぐみ》馬廻《うままわり》格に加入仰付られ候事」というので無上の面目を施して退出した。
 右の御褒美の中に「平日の心掛|宜敷《よろしく》」「暮し向万事質素」「門弟引立方深切」云々という事実は筆者等が翁の晩年に於ても親しく実見したところで、後に掲ぐる翁の逸話を一読されたならば思い半《なかば》に過ぐるであろ
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