てここに附記しておく。
 これより前、弘化三年三月、父正武氏の退隠により利春氏が家督を相続した。時に利春三十歳。翌弘化四年、三十一歳の時に父を喪《うしな》った。
 父を喪った後の利春は藩内の能楽に関する重責を一身に負い、その晩年に窺われた非凡の気魄、必死の丹精と同様……もしくはそれ以上の精彩を凝らして斯道の研鑽に努力した事が察しられる。その手記には「その後、御能、囃子等度々相勤むる」と極めて謙遜した簡短な文辞が挟んで在るだけであるが……。

 嘉永五年の三月に利春は、中庄の私宅舞台(福岡市薬院)に於て相伝の神曲「翁」の披露能を催した。相伝後正に二十年目に初めて披露をした訳である。翁一流の慎重な謙遜振りがこの時にも現われている。
 これは晩年の翁の気象から推察して、相伝後、自分が満足するまで練りに練り、稽古に稽古を重ねた結果と思われるが、更に今一歩深く翁の性格から推し考えてみると、翁は決して自分一人を鞭撻《べんたつ》していたのではあるまいと思われる。
 能楽は元来綜合的な舞台芸術である。だから仕手方《シテかた》を本位とする地謡《じうたい》、囃子方《はやしかた》、狂言等に到るまで、同曲の荘厳と緊張味とを遺憾なく発揮し得なければ、如何に達者な仕手方(翁自身)と雖《いえど》も十分の舞台効果を挙げる事が出来ない筈である。
 しかも地方|僻遠《へきえん》の地で「翁」ほどの秘曲を理解し、これを演出し得る程に真剣な囃子方、狂言方等は容易に得られない関係から、当地方の能楽界の技倆が、その程度にまで向上する時機を待っていたものか、もしくはその程度に達するまで、翁が挺身して一同を鞭撻し続けて来たものではあるまいかという事実が、前述の理由から想像される。
 そうして万一そうとすれば、只圓翁のこの披露は、当節の披露の如き手軽い意味のものでない。正に福岡地方の能楽界に一紀元を画した重大事件であったろうと思われる。同時に翁のそこまでの苦心とこれに対する一般人士の翹望《ぎょうぼう》は非常なものがあったに違いない事が想像されるので、その能が両日に亘り、黒田藩のお次(第二種)装束の拝借を差許される程の大がかりのものであった事実を見ても、さもこそと首肯される次第である。
 いずれにしてもこの「翁」披露能は一躍只圓翁をして福岡地方の能楽界の重鎮たらしめる程の大成功を収めたらしい。能後、翁は藩公より藩の御装
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