「ウン……間違えたと云やあ思い出すが、吾輩に一つ面目《めんもく》ない話があるんだ。あんまり面目ないから今まで誰にも話さずにいたんだが……ホラ……吾輩と君とで慶北丸の横ッ腹《ぱら》を修繕してしまうと、君は直ぐに綱にブラ下ってデッキに引返したろう。吾輩は沖の水舟を拾うべく、抜手を切って泳ぎ出した……あの時の話なんだ。実際、この五十余年間にあの時ぐらい、ミジメな心理状態に陥った事はなかったよ」
「……ヘエ。溺れかかったんですか」
「……馬鹿な……溺れかかった位なら、まだ立派な話だがね……」
「……ヘエッ。どうしたんですか……」
「……その小舟に泳ぎ付く途中で、何だか判然《わか》らないものが水の中から、イキナリ吾輩の左足にカジリ付いたんだ。ピリピリと痛いくらいにね」
「……ヘエ。何ですかそれは……」
「何だかサッパリわからなかったが、ちょうどアノ辺に鱶《ふか》の寄る時候だったからね。ここへ来たら大変だぞ……と泳ぎながら考えている矢先だったもんだから仰天したよ。咄嗟《とっさ》の間にソレだと思って狼狽したらしい。ガブリと潮水を呑まされながら、死に物狂いに蹴放《けはな》して、無我夢中で舟に這い上ると
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