う。おまけに吾輩は内地の騎兵軍曹の古服を着て、山高帽に長靴、赤|毛布《ゲット》に仕込杖《しこみづえ》……笑っちゃいけない。ちょうどその頃、先輩の玄洋社連が、大院君を遣付《やっつ》けるべく、烏帽子《えぼし》直垂《ひたたれ》で驢馬《ろば》に乗って、京城に乗込んでいるんだぜ。……その吾輩が長髯《ちょうぜん》を扱《しご》きながら名刺を突き出すと、ハガキ位の金縁を取った厚紙に……日本帝国政府視察官、医典博士、勲三等、轟雷雄《チョツデヨンウウン》……と一号活字で印刷してある。意訳すると豪胆、勇壮、この上なしの偉人という名前なんだから、大抵の奴が眼を眩《ま》わしたね。最小限|華族《ヤンパン》ぐらいには、到る処で買冠《かいかぶ》られたもんだ。
 この勢いで北は図満江《とまんこう》の鮭から、南は対州《つしま》の鰤《ぶり》に到るまで、透きとおるように調べ上げる事十年間……今度は内地に帰って、水産講習所長の紹介状を一本、大上段に振り冠《かぶ》りながら、沿海の各県庁、水産試験場、著名の漁場漁港を巡廻し、三寸|不爛《ふらん》の舌頭《ぜっとう》を以て朝鮮出漁を絶叫する事、又、十二年間……折しもあれ日韓合併の事成るや、大河の決するが如き勢をもって朝鮮に移住する漁民《りょうみん》だけが、前後を通じて五十万という盛況を見つつ今日《こんにち》に及んだ。歴代の統監、総督の中でも山内正俊大将閣下は、特に吾輩の功績を認めて、一躍、総督府の技師に抜擢《ばってき》し、大佐相当官の礼遇を賜う事になった。苟《いやし》くも事、朝鮮の産業に関する限り、米原《まいばら》物産伯爵、浦上水産翁と雖《いえど》も、一応は必ず、吾輩、轟技師に伺いを立てなければ、物を云う事が出来ないという……吾輩の得意想うべしだったね。
 ところでここまではよかった。ここまではトントン拍子に事が運んだが、これから先が大変な事になった。引くに引かれぬ鞘当《さやあ》てから、日本全国を潜行する無量無辺の不正ダイナマイトを正面に廻わして、アアリャジャンジャンと斬結《きりむす》ぶ事になった。しかもソイツが結局、吾輩タッタ一人の死物狂い的白熱戦になって来たんだから遣り切れない。
 或は吾輩一流の野性が祟《たた》ったのかも知れないがね。
 そのソモソモの狃《な》れ初《そ》めというのは、実につまらないキッカケからだった。
 今も云う通り吾輩は、総督府のお役人になってしまった。一介の漁師としては正に位、人臣を極めるところまで舞い上って来た訳だが、サテ、そうなってみるとドウモ調子が面白くない。朝鮮|緘《おど》しの金モール燦然《さんぜん》たる飴売《あめう》り服や、四角八面のフロックコートを一着に及んで、左様《さよう》然らばの勲何等|風《かぜ》を吹かせるのが、どう考えても吾輩の性に合わなかったんだね。正直正銘のところ山内閣下から轟……轟といって可愛がらるよりも、五十万の荒くれ漁夫《りょうし》どもから「おやじおやじ」と呼び付けられる方が、ドレ位嬉しいかわからない。この心境は知る人ぞ知るだ。トウトウ思い切ってこうした心事を、山内さんの前で露骨に白状したら、山内さんあのビリケン頭に汗を掻いて大笑《おおわらい》したよ。……あんなに笑ったのを見た事が無いと、同席の藁塚《わらづか》産業課長が云っておったがね。
 その結果、現官のままの吾輩を中心にして東洋水産組合というものが認可されて本拠を釜山《ふざん》の魚市場に近い岩角《がんかく》の上に置いた。費用は五十万の漁民《りょうみん》から一戸当り毎年二十銭ずつ、各道の官庁から切ってもらって、半官半民的に漁民の指導保護、福利増進に資すると同時に北は露領沿海州から、西は大連《たいれん》沖、支那海まで進出して宜しいという鼻息を、総督から内々《ないない》で吹き込まれた……というと実に素晴らしい、堂々たる事業に相違ない。吾輩の生命《いのち》の棄て処が出来たというので、躍り上って喜んだものだが、サテ実際に仕事を初めてみると、何より先に驚ろかされたのは組合費が集まらない事だった。
 アタジケナイ話だが、一年の一戸当りがタッタ二十銭とはいうものの、税金と違って罰則が無い。おまけに遣りっ放しの海上生活者が相手なんだから徴収困難は最初《てん》から覚悟していたが、半分以下に見て七千円の予算が、その又半分も覚束《おぼつか》ない。吾輩の本俸手当を全部タタキ込んでも建物の家賃と、タッタ一人の事務員の月給と、小使の給料に足りないのだから屁古垂《へこた》れたよ……実際……。
 ところが一方に吾輩が総督府を飛出して、水産組合を作ったという評判は、忽《たちま》ちの中に全鮮へ伝わったらしいんだね。到る処から「おやじおやじ」の引張り凧《だこ》だ。……行ってみると漁場《りょうば》の争奪、漁師の喧嘩、発動機船|底曳《そこひき》網の横暴取締り、魚
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