だ。年は若いが、生《なま》やさしい奴じゃないんだよ彼奴《あいつ》は……追々《おいおい》わかるがね……ウン。
 ところでドウダイ。モウ一パイ……ウン話すから飲め。脊髄癆《カリエス》なんてヨタを飛ばした罰《ばち》だ。落ち付いてくれなくちゃ話が出来ん。
「酒を酌んで君に与う君自ら寛《ゆる》うせよ
 人情の翻覆《はんぷく》波瀾に似たり」
 だろう……お得意の詩吟はどうしたい。ハハハハ。お互いに水産講習所時代は面白かったナア……。
 ウン面白かった。
 しかし君は途中で法律畑へ転じたもんだから、吾輩がタッタ一人、頑張って水産界へ深入りした。……少々脱線するようだがここから話さないと筋道が通らないからね……しかも内地の近海漁業は二千五百年来発達し過ぎる位発達して、極度の人口過剰に陥っている。残っている仕事はお互い同志の漁場の争奪以外に無いというのが、維新後の水産界の状態だった。
 然《しか》るにこれに反して朝鮮はどうだ。南鮮沿海の到る処が処女漁場で取巻かれているじゃないか。況んや露領|沿海州《えんかいしゅう》に於てをやだ。……これに進出しないでドウなるものか。日本内地三千万の人口過剰を如何《いかん》せん……というのが吾輩の在学当時からの持論だったが……ウン。君も散々《さんざん》聞かされた……そこで卒業と同時に、火の玉のようになって日本を飛び出して朝鮮に渡ったのが、ちょうど水産調査所官制が公布された明治二十六年の春だったが、その時の吾輩の資本というのが、牛乳配達をして貯蓄した十二円なにがしと、千金丹《せんきんたん》二百枚の油紙包みと来ているんだから、正に押川春浪《おしかわしゅんろう》の冒険小説だろう。
 ……ウン……そこでモウ一つ脱線するが、その頃の朝鮮人が千金丹を珍重する事といったら非常なものだった。君は千金丹を記憶しているだろう。甘草《かんぞう》に、肉桂粉《にっけいふん》に薄荷《はっか》といったようなものを二寸四方位の板に練り固めて、縦横十文字に切り型を入れて金粉や銀粉がタタキ付けてある。無害無効の清涼剤だが、その一枚を三十か四十かに割った三角の一片を出せば、かなりの富豪が三拝九拝して一晩泊めてくれる。一枚の三分の一でも呉れようもんなら、その頃の郡守といって、県知事以上の権威を持った大名役人が、逆立ちをしながら沿岸を案内してくれるというのだから、まるでお伽話《とぎばなし》だろ
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