来た、心境の変化であったかも知れない。又は四十を越した彼の体質から来た性格上の変化であったかも知れないが、いずれにしても今度の脱獄後の彼の手口は、まるで今までとは別人のように残虐な、無鉄砲なものに変形していた。
 彼は人跡絶えた北海道の原始林や処女林の中を、殆んど人間|業《わざ》とは思えない超速度で飛びまわりながら、時々、思いもかけぬ方向に姿を現わして、彼独特の奇怪な犯行を逞しくして来た。……酔い臥《ふ》しているアイヌの酋長《しゅうちょう》を、その家族たちの眼の前で絞殺して、秘蔵のマキリ(アイヌが熊狩りに用いる鋭利な短刀)一|挺《ちょう》と、数本の干魚《ほしうお》を奪い去った。……かと思うと、それから二三日のうちに、三十里も距たった新開農場の一軒家に押入って、ちょうど泣き出した嬰児《あかんぼ》の両足を掴むと、面白そうに笑いながら土壁にタタキ付けた。そうして若夫婦を威嚇《いかく》しいしい、悠々と大飯を平らげて立去った。……かと思うと、その兇行がまだ新聞に出ない翌日の白昼に、今度は十数里を飛んだ山越えの街道に現われて、二人の行商人に襲いかかった。若い二人の男が、仲よく笑い話をして行く背後《うしろ》から突然に躍りかかって一人を刺殺《さしころ》すと、残った一人を威嚇しながら、やはり二人の弁当の包みだけを奪って、又も悠々と山林に姿を消した。北海道のような深い山々では、内地のような山狩りが絶対に行われない事を、知って知り抜いているかのように悠々と……。
 ……虎蔵が人を殺した……しかも連続的に……そうしてまだ捕まらずにいる……という事実に対して、毎日毎日の新聞紙面が、如何《いか》に最大級の驚愕と戦慄を続けて来たか。全北海道の住民が、そうした脱獄囚の姿に毎夜毎夜どれほど魘《うな》されて来たか、そうして全道の警察の神経と血管が、連日連夜、どれ程の努力に疲れ果てて来たことか……。
 その中を脱《ぬ》けつ潜《くぐ》りつ虎蔵は、寒い寒い北海道の山の中を馳けまわる事一箇月あまり……とうとうどこがどうやら解からなくなったまま、人を殺しては飯を喰い、食料品《くいもの》を奪っては兇器を振廻わして来た。そうして真冬にならない内に、是が非でも何か一つの大仕事にぶつかるべく、突詰められた餓え狼のような気持ちで山又山を越えて来るうちに、タッタ今ヒョッコリと、どこかわからない大きな街道に出たと思う間もなく、思いがけない真向うの山蔭に、今まで見た事もない美しい、赤い光りを発見したのであった。何となく神秘的な……不可思議な……たまらなくなつかしいような……。

 虎蔵は面喰らった上にもめんくらった。幾度も幾度も眼を擦《こす》った。何故《なにゆえ》ともなく胸の躍るのを感じながら、左右に白々と横たわっている闇夜の街道を見まわした。自分で自分に云い聞かせるようにつぶやいた。
「……まさか……俺を威《おど》かすつもりじゃあんめえが……ハアテナ……」
 虎蔵はやがて両腕を組んだまま、その光りに吸い寄せられるようにスタスタと歩き出していた。深夜の草山を押し分けて、一直線に赤い光りの方向へ近付いて行くと、そのうちに虎蔵の眼の前の闇の中に、要塞のように仄《ほの》黄色い、西洋館造りの大邸宅が浮かみ現われて来た。
 赤い光りは、その大邸宅の右の端にタッタ一つ建っている、屋根の尖《と》んがった、奇妙な恰好の二階の窓から洩れて来るのであった。そのほかに燈光《あかり》の洩れている部屋は一つもないらしく、さしもの大邸宅が隅から隅まで死んだように寝静まっている事が、間もなく彼の第六感にシミジミと感じられて来た。
 虎蔵はモウ一度、前後左右を見まわした。
「……フフン……コイツは案外、大仕事かも知れんぞ……」
 とつぶやきながら微《ひそ》かに胸を躍らした。本能的に用心深い足取りで、高い混凝土塀《コンクリートべい》を半まわりして、裏手の突角《とっかく》の処まで来た。そうして矢張り本能的に懐中のマキリを鞘《さや》から抜き出して、歯の間にガッチリと啣《くわ》えた。その突角を両手と両膝の間に挟んでジリジリと上の方へ登り初めた。気が遠くなる程の空腹を感じながら……。
 一|丈《じょう》ばかりの高い混凝土塀を越えると、内部《なか》は広い花壇になっているらしい。何だかわからない秋の草花が闇の中に行儀よく列を作って、一パイに露を含んでいる中を、マキリを啣えた囚人姿の虎蔵が、ヒソヒソと匐《は》い進んで行くのであったが、そのうちに闇夜の草花の水っぽい、清新な芳香《におい》が、生娘《きむすめ》の体臭のように、彼の空腹に泓《し》み透って来た。白々とした女の首や、手足や、唇や、腹部の幻像を、真暗な彼の眼の前に、千切れ千切れに渦巻かせながら、全身が粟立《あわだ》って、クラクラと発狂しそうになるまで、彼の盲情をソソリ立てるのであっ
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