げ付けたい衝動を、ジット我慢しながらモウ一度、寝台の中を白眼《にら》み付けた。
 ……畜生……ブチ殺した方が面黒《おもくれ》えかも知れねえんだが……それじゃ俺の意地が通らねえ。タタキ付けて逃げ出したと思われちゃ詰まらねえかんな……畜生……。
 と唇を噛み締めながら考えた。
 彼は、それから更に、今までの苦しみに何層倍した、新しい苦しみに直面させられた。彼が、四十年の生涯のうちに一度も体験した事のない……髪の毛が一本一本に白髪《しらが》になってしまいそうな、危険極まる刹那刹那を、刻一刻に新しく新しく感じながら、死ぬ程重たい花と土の塊《かた》まりを、肩から胸へ……胸から床の上へソーッと抱え下した。アザヤカな淡紅色を帯びて、噎《む》せかえるほど深刻に匂う白い花ビラの大群を、静かに少女の枕元に置き直すと、ポキンポキンと音を立てる腰骨を一生懸命に伸ばしながら、長い長いふるえた溜め息を吐《つ》いた。そのまま、暫くの間、眼を閉じ、唇を噛んで、荒い鼻息を落ち付けていたが、そのうちに彼は思い出したように眼を見開いて、泥塗《どろま》みれになった両掌《りょうて》を、腰の荒縄の上にコスリ付けた。その掌《てのひら》で、鬚《ひげ》だらけの顔を撫で上げて汗を拭こうとした。
 しかし彼はモウ汗も出ないほど青褪《あおざ》め切っていた。
 その薄黒い、落ち窪んだ両眼は、老人のように白々と弱り込んで、唇が紙のように干乾《ひから》びていた。その額と頬は、僅かの間に生命《いのち》を削り取られたかのように蒼白く骨張って、力ない皺の波が、彫刻のようにコビリ付いていた。……が……そうした死人じみた片頬に、弱々しい、泣き笑いじみた表情をビクビクさせると、彼は仁王立《におうだ》ちに突立ったまま、鼻の先の空間に眼を据えた。
 咽喉《のど》の奥をゼイゼイと鳴らした。
「……オレは……オレは……ちっとも怖くないんだぞ……畜生。コレ位の事は平気なんだぞ……エヘ……エヘ……」
 そう云ううちに彼は力が尽きたらしくガックリと低頭《うなだ》れた。タッタ今、自分が成し遂げた最大、最高の仕事を、振り返り振り返り、懐中《ふところ》のマキリを押えながら、ヒョロヒョロと出て行った。
 彼の背後《うしろ》から静かに静かに閉まって行った重たい扉《とびら》が、忽ち、轟然《ごうぜん》たる大音響を立てて、深夜の大邸宅にどよめき渡りつつ消え失せた。

 ……あくる朝……。
 晴れ渡った晩秋の旭光《きょっこう》がウラウラと山懐《やまぶところ》の大邸宅を照し出すと、黄色い支柱を並べた外廊下に、白い人影が二つほど歩みあらわれた。
 それは白絹のパジャマを着流した、若い、洋髪の日本婦人と、やはり純白のタオル寝巻を纏《まと》うた四ツか五ツ位の、お合羽《かっぱ》さんの女の児《こ》が並んで、むつまじそうに手を引き合った姿であった。
 若い洋髪の女性は、片手で寝乱れた髪を撫で上げながらも、こうした大邸宅にふさわしい気品のうちにユックリユックリと白|羅紗《らしゃ》のスリッパを運んで来たが、やがて棕櫚《しゅろ》のマットの中央まで来ると、すこし寒くなったらしく、襟元《えりもと》を引き合わせて立ち止まった。
 すると、その時に、お合羽さんの女の児が、つながり合った手を無邪気に引離しながらチョコチョコ走りに廊下を伝わって、真綿《まわた》の白靴をひるがえしひるがえし石の段々を一つ一つに登って行った。そうしてサモサモ嬉しそうに扉《ドア》の把手《ノッブ》を押しながら、内側へ消え込んで行ったが、やがて間もなく、眼をマン丸にして重たい扉《と》を引き開くと、一散に階段を馳け降りて来た。
 若い女性は、それを見迎えながら微笑した。
「……まあ……あぶない……ゆっくりオンリしていらっしゃい」
 しかし女の児は聴かなかった。
 可愛いお合羽さんを左右に振りながら、若い女性のパジャマの裾《すそ》に縋《すが》り付いた。
「……いいえ……お母チャマ大変よ……アノネ……アノネ……アタチ……アノお人形のお姫《ひい》チャマのおめざ[#「おめざ」に傍点]を、いただきに行ったのよ……ソウチタラネ……」
 と云いさして女の児は息を切らした。
「ホホホ……チュウチュが引いていたのですか」
 女の児は一層眼を丸くして頭を振った。
「……イイエ。お母チャマ……ソウチタラネ……お部屋の中が泥ダラケなのよ……」
「……エ……」
 若い女性は顔の色をなくした。女の児の顔をシゲシゲと見下した。
「……ソウチタラネ……アノお人形のお姫《ひい》チャマのお枕元に、大きい、白《ちろ》い菊の花が置いてあったのよ」
「……まあ……」
 といううちに若い女性は唇の色までなくしてしまった。その唇の近くで白い指先をわななかしながらすぐ傍の芝生の上に残っている輪形の鉢の痕跡《あと》を見まわしていたが、やがて
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