足《はだし》のまゝ本堂の周囲を一めぐりするに、本堂の階段の下に微かながら泥の跳ね上りし痕跡《あと》あり。其処より床下へ匐ひ入り行くに積み並べたる炭俵の間に、今まで知らざりし石の階段あり。その階段の下より嗅ぎ慣れし白檀の芳香、ゆるやかに薫じ来る気はひあり。
 われ心に打ちうなづき、薄|湿《じめ》りせる石階のほの暗きを爪探《つまさぐ》りて、やゝ五六段ほど降《くだ》り行きしと思ふ処に扉と思《おぼ》しき板戸あり。その中央に方五寸ほどの玻璃《はり》板を黒き布にて蔽ひたるが嵌《は》め込み在り。いか様、窖《あなぐら》の中の様子を外より覗くたよりと為せる体《てい》なり。彼《か》の馬十が覗きしものにかあらむと心付けば、今更におぞましさ限り無く、身内に汗ばむ心地しつ。われも其の真似をするが如く、息を凝らして覗き見るに、忽然《たちまち》、神気逆上して吾が心も、わが心ならず。一気に扉を押し破りて窖《あなぐら》の中に躍り入り、呀《あ》つと逃げ迷ふ奈美女の白き胴体を、横なぐりに両断し、総身の黥《いれずみ》を躍らせて掴みかゝる馬十の両腕を水も堪まらず左右に斬り落す。続いて足を払はれし馬十は、歯を剥き眼を怒らして床上に打ち倒ふれつ。振り上ぐるわが刀を見上げつゝ吠え哮《た》けるやう。おのれ横道者。おぼえ居れ。奈美女は最初よりわが物なり。前の和尚と汝は間男なりし事を知らずや。この年月、奈美女の情により養はれ来りし恩を仇にする外道の中の外道とは汝が事ぞや。神や仏は、あらずもがな。人の一念残るものか残らぬものか今に見よ。此怨み、やはか返さでやはあるべき。その証拠に今日植ゑしくれなゐ[#「くれなゐ」に傍点]の花を今年よりは真白く咲かせて見せむ。彼《か》の花の白く咲かむ限り、此の切支丹寺に、われ等の執念残れりと思へ。此の怨み晴れやらぬものと思へと狼の吠ゆるが如く喚《わ》めき立つるを、何を世迷言《よまひごと》云ふぞ、と冷《あざ》笑ひつ。此世は此世限り。人間の死後に魂無き事、犬猫に同じきを知らずや。汝等男女こそ覿面《てきめん》の因果応報、思ひ知らずやと云ひも終らず、馬十の脳天を唐竹割にし、奈美女の死骸を打重ねて止刺刀《とゞめ》を刺し、その上より部屋の中の珍宝、奇具を片端《かたはし》より覆へして打重ねたるまゝ本堂の下を潜りて外に出で、血刀と衣服を前なる谷川に洗ひ浄めて、悠々と方丈に帰り来りぬ。
 去る程に其の日の残る半日の暮れつ方まで、われは只管《ひたすら》に恍惚として夢の中なる夢の醒めたる心地となり、何事も手に附かず、夕餉《ゆふげ》の支度するも倦《ものう》く、方丈の中央《まんなか》に仰向《あふの》きに寝《い》ね伸びて、眠るともなく醒むるとも無くて在りしが、扨《さて》、夜に入りて雨の音しめやかに、谷川の水音|弥増《いやまさ》るを聞くに付け、世にも不思議なる身の運命、やう/\に思ひ出でられつ。床に入りても眼《まなこ》、冴え/″\として眠むられず。
 眠むられぬまゝに思ふやう。神も仏も在《ま》しまさぬ此世に善悪のけぢめ求むべき様なし。たゞ現世の快楽《けらく》のみこそ真実ならめ。人の怨み、誹《そし》りなぞ、たゞ過ぎ行く風の如く、漂ふ波にかも似たり。人間万事あとかたも無きものとこそ思ひ悟りて、腕にまかせ、心に任せて思はぬ快楽《けらく》を重ね来りしわれなりしか。その行末の楽しみの相手なりし者を討ち果したらむ今は、わが身に添ひたる、もろ/\の大千世界を打ち消して涯てしも無き虚空に、さまよひ出でし心地しつ。明日よりは何を張合《はりあひ》に生きむと思へば、世にも哀れなるわが姿の、今更のやうに面影に立つさへ可笑し。
 やよ鬼三郎よ。明日より何方《いづかた》へ行かむとするぞ。汝が魂、何処《いづこ》にか在る。今までの生涯は夢なりしか。現《うつゝ》なりしか。まこと人の心に神も仏も無きものか。人の怨み、わが身の罪業を思ひ知りて神仏の御手に縋《すが》らむと思はずや。天地の大を以て見れば、さしも強豪、無敵の鬼三郎も多寡《たか》の知れたる一匹の蛆虫《うじむし》。何処《いづこ》より蠢《うご》めき来り。何処《いづこ》へ蠢めき去らむとするぞ。やよ鬼三郎。何処《いづこ》へ行くぞと。大声にて叫ぶ声、われとわが耳に入りて夢醒むれば、何時《いつ》の間にかまどろみけむ。夜は白々と明け離れて、向山《むこやま》の杉の梢に鴉の啼く声|頻《しき》り也。
 われは、それより力無く起き上り、本堂下の窖《あなぐら》に入りて、男女の屍体を数段に斬り刻み、裏山の雑木林の彼処《かしこ》此処《こゝ》に埋め終りつ。さて残りたる米を粥に作りて何の味《あじは》ひも無く腹を満たし、梅干、塩、味噌なぞを嘗めながら、日もすがら為す事も無く方丈に閉《た》て籠もり、前の和尚の使ひ残したる罫紙を綴ぢ、今までの事を斯様《かやう》に書き綴り行く程に思ひの外に筆進まず。二月がほど日を送り、早くも梅雨上りの若芽萌え立つ今日の日はめぐり来りぬ。

 さる程にわれ、今朝の昧爽《まだき》より心地何となく清々《すが/\》しきを覚えつ。小暗《をぐら》きまゝに何心なく方丈の窓を押し開き見るに、思はず呀《あつ》と声を立てぬ。
 此間馬十が植ゑ蒔きし梅の根方のくれなゐ[#「くれなゐ」に傍点]の種子、いつの間にか芽を吹きにけむ。窓の上の屋根に打ちかぶさるばかりに茂り広ごりたるが、去年《こぞ》の春見しが如き、血の色せる深紅の花は一枝も咲き居らず。屍肉の如く青白き花のみ今を盛りと咲き揃ひ居りしこそ不思議なりしか。
 此時のわが驚き、いか計《ばか》りなりけむ。彼《か》の馬十が末期に叫びし言の葉を眼の前に思ひ知りて、白日の下、寒毛竦立《かんまうしようりつ》し、心気打ち絶えなむ計《ばか》りなりしか。
 さてこそ人の怨みは此世に残るものよ。神も仏もましますものよと思へばいとゞ空恐ろしく、思はず本堂によろめき入りて御本尊の前に両手を合はせ。何事のおはしますかは知らず。申訳無く面目無し。かしこき天地の深く大なる心を凡夫の身勝手にて推《お》し計《はか》りしことのおぞましさよ。此上に生き長らへて罪業を重ねむより、死して地獄の苛責に陥《お》ち、今までの罪の報いを受けむこそ中々に心安けれ。一念《いちねん》弥陀仏《みだぶつ》、即滅《そくめつ》無量《むりやう》罪障《ざいしやう》と聞けど、わが如き極重悪人の罪を救はれざらむ事、もとより覚悟の前ぞかし。南無《なむ》摩里阿《マリア》如来《によらい》。南無摩里阿如来と両手を合はせて打泣き/\方丈に帰り来りつ。さて流るゝ涙を堰《せ》きあへず。迫り来る心を押し鎮めて此文を認《したゝ》め終りぬ。
 われ今より彼《か》の窖《あなぐら》に炭俵を詰めて火を放ち、割腹してそが中に飛入り、寺と共に焼け失せて永く邪宗の門跡を絶たむとす。たゞ此の文と直江志津の一刀のみは鐘楼の鐘の下に伏せ置き、後日の証拠《あかし》とし、世の疑ひを解かむ便《よすが》とせむ心算《つもり》なり。
 なほ刀の中心《なかご》に刻みし歌は、わが詠みしものを下の村の鍬鍛冶《くはかぢ》に賃して刻ませしもの也。唐津藩に齎《もた》らし賜はらば藩公の御喜びあるべく、此文の偽《いつはり》ならざる旨も亦明らかなるべしと思ひ計《はか》りてなせし事なり。歌の拙《つた》なきを笑ひ給ふ事なかれ。
[#ここから2字下げ]
のこる怨み白くれなゐの花盛り
    あまたの人をきりしたん寺
寛永六年五月吉日
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]鬼三郎しるす

       ×          ×          ×

 それから十四五日経ってから例の古道具屋の貫七|爺《じい》が又遣って来た。骨だらけの身体《からだ》に糊の利いた浴衣、絽《ろ》の羽織を引っかけて扇をパチパチいわせている姿は如何にも涼しそうである。
 私は夏肥りに倦《たる》み切った身体《からだ》を扇風器に預けていた。
「あの白い花の正体がおわかりになりましたでしょうか」
「ウン。わかったよ。九大農学部に僕の友人が居ると云ったね」
「ヘエヘエ。たしか加藤博士様とか」
「馬鹿。そんな事云やしないぜ。第一博士じゃない。富士川といって普通の学士だがね。所謂万年学士という奴だ。植物の名前なら知らないものはないという」
「ヘイ。エライもので御座いますな」
「そいつにあの花を送って調べさしてやったら、いくら研究しても隠元豆に相違ないと云うんだ」
「ヘエッ。どちらが隠元豆なんで……」
「どっちも隠元豆なんだ」
「テヘッ。飛んだ変幻豆でげすな」
「洒落にもならない話だよ。もっとも隠元豆にも色々あるそうで、何十通りとか変り種がある。その中でもあの紅《あか》い方のは、昔から観賞植物になっていたベニバナ・インゲンという奴で、白い方のが普通の隠元豆なんだが、素人眼《しろうとめ》には花の色を見ない限りちょっと区別が付きにくいという」
「成る程。奇妙なお話もあればあるものでげすな。ヘエ」
「まったくだよ。そこでその富士川って学士も念のために、わざわざ清滝の切支丹寺まで行って調べて来たんだそうだが、すっかり野生になっているので、いよいよ紅花隠元《べにばないんげん》に似ていたという。吾々が見たってわからない筈だよ」
「ヘエッ。どうしてソレが又、入れ代ったんで……」
「何でもない事さ。君はこの書付を読んだかい。鬼三郎の一代記を……」
「ヘエ。初めと、おしまいの方をちっとばかり拝見致しましたが」
「ウン、この中に書いてある寺男の馬十という奴が、近いうちに主人公の鬼三郎に殺される事を知っていたんだね。だから今の紅花隠元を蒔くふりをして実は普通《あたりまえ》の隠元豆を蒔いといたんだよ。ちゃんとわかっている」
「ヘエ。驚きましたね。しかし旦那様。酔狂な死に方をする奴が、あればあるもので御座いますねえ」
「それあ今だって在るよ。班長殿から死ねと云われましたと遺書を残して自殺する兵隊も居る位だからね。こんな風にヒネクレていた奴なら遣りかねないだろう。好いた女と一所に殺されて、後に祟りを残すなんて仕事が、馬十の痴呆《ほう》けた頭には、たまらなく楽しみだったかも知れないね」
「ヘエヘエ。成る程ナ。しかし旦那様。その切支丹の跡を御別荘にお求めになりますか。如何でげしょうか。実はまだ区長さんの処に下駄を預けておりまするが」
「まあ見合わせようよ。折角だが……この刀を抜いて見ただけでも妙に涼しくなって、ゾクゾクして来るようだからね。ハッハッハッハッハッハッ……」



底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年10月22日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:ちはる
2001年4月11日公開
2006年2月24日修正
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