み、へつらひ寄る、人情紙の如き世中《よのなか》に何の忠義、何の孝行かある。今に見よ。その肝玉を踏み潰し、吠面《ほえづら》かゝし呉れむと意気込みて、いよ/\腕を磨きければ二十一歳の冬に入りて指南役甲賀昧心斎より柳生流の皆伝を受くるに到りぬ。
 此時、われに縁談あり。藩内二百石の馬廻り某氏《なにがしうぢ》の娘御《むすめご》にしてお奈美殿となん呼べる今年十六の女性なりしが、御家老の家柄にして屈指の大身なる藤倉大和殿夫婦を仲人に立て、娘御の両親も承知の旨答へ来りし体《てい》、何とやらむ先方より話を進め来りし気はひなり。
 われ何となく心危ぶみて、自身に藤倉大和殿御夫婦を訪《おとな》ひ、お奈美殿は藩内随一の御|綺倆《きりやう》とこそ承れ。いまだ一度の御見合ひを遂げざるに御本人の御心|如何《いかゞ》あらむ。相手の婿がねが某《それがし》なる事、屹度、御承知に相違御座なきやと尋ねし処、藤倉殿申さるゝ様。奈美女殿の母親は当家より出でたるものにて、奈美女と、われ等夫婦とは再従妹《またいとこ》の間柄に当れり。何条《なんでう》粗略なる事致すべき。殊に奈美女は孝心深き娘なり。両親さへ承知すれば何の違背かあるべき。這《こ》は決して仲人口《なかうどぐち》に非ず。申さば御身のお手柄とも見らるべし。左様なる事、若き人の口出しせぬものぞかし。一切をわれ等に任せて安堵されよと言葉をつくしたる説明《ことわけ》なり。われも強ひて抗《あらが》ひ得ずして、成り行く儘に打ち任せつゝ年を越えぬ。
 かくて兎も角も其夜となり、式ども滞《とゞこほり》なく相済み、さて嫁女と共に閨《ねや》に入るに、彼《か》の嫁女奈美殿、屏風の中にひれ伏してシミ/″\と泣き給ふ体《てい》なり。われ胸を轟かしつゝ、今宵の婿がね、此の片面鬼三郎なりし事、兼ねてより御承知なりしやと尋ねしに、奈美殿、涙ながらに頭を打振り給ひて、否とよ。何事も妾《わらは》は承り侍らず。何事も母上様がと云ひさして又も、よゝとばかり泣き沈まるゝ体なり。因《ちなみ》に奈美殿の母親は継母《まゝはゝ》なり。しかもお生家《さと》が並々ならぬ大身なる処より、嬶《かゝあ》天下の我儘一杯にて、継子|苛《いぢ》めの噂もつぱら[#「もつぱら」は底本では「もっぱら」]なる家なり。されば最初よりかゝる事もやあらむと疑ひ居りし我は、恥かしさ、口措《くちを》しさ総身にみち/\て暫時《しばし》、途方に暮れ居たりしが、やがて嫁女奈美殿の前に両手を支《つか》へつ。此の粗忽はわが不念《ぶねん》より起りし事なり。平に許させ給ふべしと、詫言するとひとしく立上り、奥の間にて喜びの酒酌み交し居りし仲人、藤倉大和殿夫婦を右、左に斬り倒ふし、うろたへ給ふ両親をかへりみて、われ乱心したりとばし思召《おぼしめ》されなよ。今一人斬るべき者の候間、そを見てわが心を知らせ給へ。孝不孝はかへりみる処に非ず。虚偽は男子の禁物なり。鬼三郎の一念、今こそ思ひ知り給へやと云ひ棄てゝ走り出で、奈美殿の両親の家を訪《おとな》ひ、驚きて迎へに出で来る継母御を玄関先に引捕へて動かせず。静かに鬼三郎の云ふ事を聞き給へ、義理の娘が憎《に》くさの余り、生家方《さとかた》の威光を借りて、かゝる縁談を作り上げ、吾を辱かしめ給ひしに相違あるまじ。その御自慢のお家柄、藤倉殿御夫婦は唯今討果したるばかりなり。性根を据ゑて返答し給へ。如何に/\と問ひ詰むるに、黙然として答無し。すなはち一刀の下に首を打落して玄関に上り、物蔭にて打|戦《をのゝ》き給ふ奈美殿の父御を探し出し、やよ。岳父御《しうとご》よ。よく聞き給へ。此度の事は泰平の御代に武道を忘れ、縁辺の手柄を頼《たより》に出世を望み給ひし御身の柔弱より出でし事ぞかし。今夜斬りし三人の顔触れを見給はゞ奈美殿の清浄潔白は証明《あかし》立つ可し。安心して引取り給へ。われは生涯、女を絶ち、おとなしき娘御の孝心に酬いまゐらすべし。さらば/\と云ひ棄てゝ其の家を出で、夜もすがら佐賀路に入り、やがて追ひ縋り来りし数多の捕手《とりて》を前後左右に切払ひつゝ山中に逃れ入り、百姓の家に押入りて物を乞ひ、押借り強盗なんどしつゝ早くも長崎の町に入りぬ。

 長崎は異人群集の地、商売繁昌の港なり。わが如き者は日本に在りては国の災ひ也。異国に渡りて碧眼奴《あをめだま》どもを切り従へむこそ相応《ふさは》しけれと思ひ定めつ。渡船の便宜《よすが》もがなと心掛け歩《あ》りくうち、路用とても無き身のいつしか窮迫の身となりぬ。詮方《せんかた》無さに町道場に押入りて他流試合を挑み、又は支那人の家に押入りて賭場荒しなぞするうちに、やがて春となりし或る日の午の刻下りのこと諏訪山下、坂道の途中にて一人の瘠せ枯れたる唐人の若者に出会ひしに、しきりに叩頭して近付き来る。何事やらむと立佇《たちと》まれば慌しく四隣《あたり》を見まはし、鮮やかなる和語に声を秘《ひそ》めつゝ、御頼み申上げ度き一儀あり。枉《ま》げて吾が寝泊りする処まで御足労賜はりてむやと、ひたすらに三拝九拝する様なり。すなはち心得たる体にて彼《か》の唐人に誘はれ行くに、港の入口、山腹の中途に聳え立つ南蛮寺の墓地に近く、薬草の花畑を繞《めぐ》らしたる一軒の番小舎あり。その中に山の如く積み上げたる藁の束を押し分けて、いと狭き落し戸より、真暗き石段を降り行けば、やがて美くしく造り飾りたる窖《あなぐら》に出でぬ。得も云はれず芳ばしき煙、夢の如く棚引き籠もれり。
 其処までわれを誘ひ入れし若き唐人は、やがて吾を長崎随一の漢薬商、黄駝となん呼べる唐人に引合はせぬ。
 其の黄駝といへる唐人、同じく三拝九拝して、われに頼み入る処を聞けば別儀に非ず。六神丸の秘方たる人胆《ひとぎも》の採取なり。男女二十歳以上三十歳までの生胆金二枚也。二十歳以下十五歳まで金三枚也。十五歳より七歳まで五枚也。七歳以下金十枚といふ話也。
 黄駝は肥大、福相の唐人。恭しくわれに銀器の香煙を勧むるに、弁舌滑らかにして甘脂の如し。此の六神の秘方は江戸の公方、京都の禁裡の千金の御命を救ひ参らせむ為に、年々|相調《あひとゝの》へて献上仕るもの。虫螻《むしけら》と等しき下賤の者の生命《いのち》を以て、高貴の御命を延ばし参ゐらせむ事、決して不忠の道に非ず。貴殿の御武勇を以て此事を行ひ賜はらば一代の御栄燿《ごええう》、正に思ひのまゝなるべしと、言葉をつくして説き勧むるに、われ、香煙の芳香《にほひ》にや酔ひたりけむ。一議に及ばず承引《うけひ》きつ。其夜は其の花畑の下なる怪しき土室《あなぐら》にて雲烟、恍惚の境に遊び、天女の如き唐美人の妖術に夢の如く身を委せつ。
 眼ざめ来れば、身は南蛮寺下の花畑の中に在り。茫々|乎《こ》として万事、皆夢の如し。わが曾て岳父御《しうとご》に誓ひし一生|不犯《ふぼん》の男の貞操は、かくして、あとかたも無く破れ了んぬ。
 われ此時、あまりの浅ましさに心|挫《くじ》け、武士の身に生れながら、生胆《いきぎも》取りの営業《なりはひ》を請合ひし吾が身の今更におぞましく、情なく、長崎といふ町の恐ろしさをつく/″\と思ひ知りければ、今は片時も躊躇《ためら》ふ心地せず。そのまゝ南蛮寺を後にして、諏訪神社の石の鳥居にも背《そがひ》を向け、足に任せて早岐の方を志す。山々の段々畠に棚引く菜種、蓮花草の黄に紅に、絶間なく揚る雲雀《ひばり》の声に、行衛も知らぬ身の上を思ひ続けつゝ、幾度となく欠伸し、痴呆《うつけ》の如くよろめき行く様《さま》ひとへに吾が生胆《いきぎも》を取られたる如し。
 さる程に不思議なる哉。いまだ左程に疲れもやらぬ正午下《ひるさが》りの頃ほひより足の運び俄かに重くなりて、後髪《うしろがみ》引かるゝ心地しつ。昨日吸ひたる香煙《かうえん》の芳ばしき味ひ、しきりになつかしくて堪へ難きまゝに、われにもあらず長崎の方へ踵《くびす》を返して、飛ぶが如く足を早むるに、夢うつゝに物思ひ来りし道程《みちのり》なれば、心覚え更に無し。今来し道を人に問ひ/\引返し行く程に、いつしか、あらぬ山路に迷ひ入りけむ、行けども/\人家見えず。されども香煙のなつかしさは刻々に弥増《いやまさ》り来りて今は心も狂はむばかり。胸轟き、舌打ち乾き、呼吸《いき》も絶えなむばかりなり。
 折ふし薪を負ひて、さがしき岩道を降り来れる山乙女あり。われ半面を扇にて蔽ひつゝ、その乙女を呼び止めて、長崎へ行く道を問ふに、乙女は恥ぢらひつゝ笠を取り、いと懇《ねんごろ》に教へ呉れぬ。彼《か》の長崎にて見し紅化粧したる天女たちとは事変り、その物腰のあどけなさ、顔容《かほばせ》のうひ/\しさ、青葉隠れの初花よりも珍らかなり。
 われ、かく思ひつゝも恭しく礼を返し、教へられし方に立去らむとせしが、又、忽ちに心変りつ。四隣《あたり》に人無きを見済まして乙女の背後より追ひ縋り、足音を聞いて振り返る処を、抜く手を見せず袈裟掛《けさが》けに斬り倒ふし、衣服を剥ぎて胸を露《あら》はし、小束《こづか》を逆手《さかで》に持ちて鳩骨《みぞおち》を切り開き、胆嚢《たんなう》と肝臓らしきものを抉《ゑぐ》り取りて乙女の前垂に包み、傍の谷川にて汚れたる手足と刀を洗ひ浄めつゝ一散に山を走り降り、胆《きも》の主《あるじ》が教へ呉れし通りに山峡の間を抜け、村里と菜種畠をよぎり行くに、やう/\にして日の暮れつ方、灯火《ともしび》美くしき長崎の町に到り着きつ。夕暗《ゆふやみ》の中に彼《か》の花畑の中の番小舎の扉を叩きぬ。
 番人の瘠せ枯れたる若き唐人、驚き喜びて迎へ入るゝに、下の土室《あなぐら》にて待兼ねたる黄駝の喜びは云ふも更なり。わが携へたる生胆を一眼見るより這《こ》は珍重なり。お手柄なり。たしかに十七八歳なる乙女の生胆なりとて、約束の黄金三枚を与へしのみかは、香煙、美酒、美肴に加ふるに又も天女の如き唐美人の数人を饗応《もてな》し与へぬ。その歓待《もてなし》、昨日にも増り(以下原文十行抹殺)。
 かくて年月を経《ふ》るうちに鉄の如くなりしわが腕の筋も、連日連夜の遊楽に疲れけむ。やう/\に弱り行く心地しつ。されども彼《か》の香烟の酔ひ醒めの心地狂ほしさはなか/\に切先《きつさき》の冴え昔に増《まさ》る心地して、血に餓うるとは是をや云ふらむ。毎日正午ともなれば人一人斬らでは止み難く、斬れば早や香煙に酔ひたる心地して、南蛮寺下の花畑に走り行く。心は現世の鬼畜、悪魔、外道に弥増《いやまさ》るやらむ。身は此世ならぬ極楽夢幻の楽しみ。阿羅岐《あらき》の蘇古珍《スコチン》酒、裸形《らぎやう》の妖女に溺れつくして狂乱、泥迷に昼夜を頒《わか》たねば、使ふに由なき黄金は徒らに積り積るのみ。すなはち人知れず稲佐の大文字山に登り行き、只《と》有る山蔭の大岩の下に埋め置きつ。早や数百金にもなりつらむと思ふ頃、その中より数枚を取り出し、丸山の妓楼に上り、心利きたる幇間に頼みて、彼《か》の香煙の器械一具と薬の数箱を価貴《たか》く買入れぬ。こは人に知らせじと思ひし、わが人斬りの噂、次第に高まり来りて、いつしか長崎奉行、水尾甲斐守の耳に入りしと覚しく、与力、手先のわれを見送る眼付き尋常ならざるに心付き、人知れず身を晦まさむ時の用意に備へたるものにぞありける。

 去る程に其の春の末つ方の事なりけり。何の故にかありけむ。此の長崎にて切支丹の御検分《おんあらため》ことのほか厳しくなり、丸山の妓楼の花魁《おいらん》衆にまで御奉行、水尾様御工夫の踏絵の御調べあるべしとなり。当日の模様、物珍らしきまゝに、われも竹矢来の外の群集に打ちまじりて見物するに、今しも丸山一の大家、初花楼《はつはなろう》の太夫職にして、初花《はつはな》といふ今年十六の全盛なる少女が、厳めしき検視の役人の前にて踏絵を踏む処なりとて人々、息も吐《つ》きあへず見守り居る体《てい》なり。
 初花太夫は全盛の花魁姿。金襴、刺繍の帯、裲襠《うちかけ》、眼も眩ゆく、白く小さき素足痛々しげに荒莚《あらむしろ》を踏みて、真鍮の木履《ぼくり》に似たる踏絵の一列に近付き来りしが、小さき唇をそと噛みしめて其の前に立佇《たちと》まり、四方より輝やき集まる人々の眼を見まはし
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