りなり。
さて、わが身も心ゆくまで冷水を飲み傾くるに、其の美味《うま》かりし事今も忘れず。折ふし向岸の諏訪下の渡船場《わたし》より早船にて、漕ぎ渡し来る数十人の捕吏《とりて》の面々を血刀にてさし招きつゝ、悠々として大文字山に登り隠れ、彼《か》の大判小判の包みと、香煙の器具一式とを取出して身に着け、鞘を失ひし脇差を棄てゝ身軽となり、兼ねてより案内を探り置きし岨道《そばみち》伝ひに落ち行く。
かくて其夜は人里遠き山中に笹原の露を片敷きて、憐れなる初花の面影と共寐しつ。明くれば早くも肥前一円に蜘蛛手の如く張り廻されし手配りを、彼方《かなた》に隠れ、此方《こなた》に現はれ、昼|寝《い》ね、夜起きて、抜けつ潜りつ日を重ね行くうちに、いつしか思ひの外なる日田《ひた》の天領に紛れ入りしかば、よき序《ついで》なれと英彦山《ひこさん》に紛れ入り、六十六部に身を扮装《やつ》して直江志津の一刀を錫杖に仕込み、田川より遠賀《をんが》川沿ひに道を綾取《あやど》り、福丸といふ処より四里ばかり、三坂峠を越えて青柳の宿《しゆく》に出でむとす。
既に天下のお尋ね者となりし身の尋常の道筋にては逃るべくもあらず。青柳より筑前領の大島に出で、彼処《かのところ》より便船を求めて韓国《からくに》に渡り、伝へ聞く火賊《くわぞく》の群に入りて彼《か》の国を援け、清《しん》の大宗の軍兵に一泡噛ませ呉れむと思ひし也。
人の運命より測り知り難きはなし。
われ、かく思ひて其の夜すがら三坂峠を越え行くに、九十九折《つゞらをり》なる山道は、聞きしに勝る難所なり。山気漸く冷やかにして夏とも覚えず。登り/\て足下を見れば半刻ほど前に登り来りし道、蜿々として足下に横たはれり。飴色の半月低く崖下に懸れるを見れば、来《こ》し方《かた》、行末《ゆくすゑ》の事なぞ坐《そゞ》ろに思ひ出でられつ。流るゝ星影、そよぐ風音にも油断せずして行く程に何処《いづこ》にて踏み迷ひけむ。さまで広からぬ道は片割月の下近く、山畠の傍なる溜池のほとりに行き詰まりつ。引返さむとして又もや道をあやまりけむ。山道次第に狭まり来りて、猪、鹿などの踏み分けしかと覚ゆるばかり。山又山伝ひに迷ひめぐりて行くうちに、二十日月いつしか西に傾き、夜もしら/″\と明け離るれば、遥か眼の下の山合《やまあひ》深く、谷川を前にしたる大きやかなる藁屋根あり。浅黄色なる炊煙ゆる/\立昇りて半《なかば》眠れるが如き景色なり。
扨《さて》は人家ありけるよと打喜び、山|岨《そば》の道なき処を転ぶが如く走り降り、やゝ黄ばみたる麦畑を迂回《まは》りつゝ近付き見るに、これなむ一宇の寺院にして、山門は無けれど杉森の蔭に鐘楼あり。前庭の洒掃《さいさう》浄らかにして一草一石を止めず。雨戸を固く鎖《とざ》したる本堂の扁額には霊鷲山《りやうじゆさん》、舎利蔵寺《しやりざうじ》と大師様の達筆にて草書したり。方丈の方へ廻り行くに泉石の按配、尋常《よのつね》ならず。総|檜《ひのき》の木口|数寄《すき》を凝《こ》らし、犬黄楊《いぬつげ》の籬《まがき》の裡《うち》、自然石の手水鉢《てうづばち》あり。筧《かけひ》の水に苔|蒸《む》したるとほり新しき手拭を吊したるなぞ、かゝる山中の風情とも覚えず。又、方丈の側面の小庭に古木の梅あり。その形豆に似て、真紅の花を着けたる蔓草、枝々より梢まで一面に絡み付きて方丈の屋根に及べるが、流石《さすが》に山里の風情を示せるのみ。
われ此等《これら》の風情を見て何となく不審に堪へず。一めぐりして庫裡《くり》の辺《ほとり》より、又も前庭に出で行かむとする時、今の籬の裡《うち》なる手水鉢の辺《あたり》に物音して人の出で来る気はひあり。此《この》寺の和尚にやあらん。如何なる風体の坊主にやと件《くだん》の蔓草の葉蔭より覗き見るに、出で来るものは和尚に非ず。籬《まがき》の隙間より洩れ来るは色白く、眉青く、前髪より水も滴らむばかりの色若衆の、衣紋《えもん》仇《あだ》めきたる寝巻姿なり。白魚の如き指をさしのべて筧の水を弄《もてあそ》ぶうちに、消ゆるが如く方丈に入り、内側より扉をさし固むる風情なり。
われ余りの事に呆れ果て、茫然と佇みて在りしが、物好きの心俄かに高まり来りて止み難くなりつ、何気なく前庭に出づるに、早くも起き出でし寺男と思《おぼ》しく、骨格逞ましく、全身に黥《いれずみ》したる中老人が竹箒を荷《かつ》ぎて本堂の前を浄め居り。
われ其《その》男に近づきて慇懃《いんぎん》に笠を傾け、これは是《こ》れ山路に踏み迷ひたる六部也。あはれ一飯の御情に預り、御本堂への御つとめ許し賜はらば格別の御|利益《りやく》たるべしと、念珠、殊勝|気《げ》に爪繰《つまぐ》りて頼み入りしに彼《か》の寺男、わが面体《めんてい》の爛れたるをつく/″\見て、まことの非人とや思ひけ
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