苦労を思い知らせねばならぬ。自分の相伝された時の艱難《かんなん》を覚らせねばならぬ。「先祖代々の形容に絶した苦心の集積を譲り受けて衣食するのだぞ。そのおかげで他人の師となって、尊敬を受けて行く事が出来るのだぞ。この恩のわからない奴は能のわからない奴だぞ」……という心をどこまでもタタキ込んで行かねばならぬ。
 これが能楽師たる者の最高の職分である。
 これが能の生命の根源である。
 ところが能をやる者は人間である。人間である以上、めいめい自分の頭の程度に能を解釈して勝手に羽根を伸ばしたい。一番イヤな恩なぞは感じたくない……というのが人情である。そうして識らず識らずの間に自分の芸を堕落させて大衆に迎合して行く。能楽界の外道となって行くのが多い勝ちである。
 これを喰い止めて行く最後の責任者は家元である。家元が祖先の恩を忘れたならば、その流儀の能は遠からず、あらゆる意味に於て滅亡して行く。否。その忘れた瞬間から滅亡し初める。
 家元は、そんな事を考え得ない内弟子、囃方、狂言師、素人弟子の中心に立って、敢然としてこの精神を支持し宣揚して行かねばならぬ。
 そうしてこの精神と、芸との両方を兼ね備
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